4月12日(火)人生はシジフォスである。

 ぼやけた快晴。15.4℃~25.6℃、47%。4700歩。またまた夏日。

 今日のKOVID状況:都の新規感染者数は6922人で0.7%の減少、重症者数は27人、死亡3人でした。今日もほぼ膠着中。

 

 できないものごと:たとえば5次以上の代数方程式の一般解を求めるとか。

 神ならぬ人間にはどーしても出来ないことはあります。例えば、時間を逆方向に流すこと。また例えば、無秩序化(エントロピーの増大)に逆らうこと。水に垂らしたインクは必ず拡散して均一化します。均一化した青い水がインクの一滴になることは自然過程では起きません。

 人の意識は秩序化だと言います。秩序だってものごとを解釈するのが意識の役割です。秩序だってものごとを整理できない人は狂った人と言われます。とても長い時間睡眠を取らないと人は狂うと言われます。これにより睡眠は意識が秩序だった活動をする際に溜まってしまった無秩序(エントロピー?)を処理する機能を有していると推測されます。睡眠により脳内に蓄積された無秩序を解除することにより、目が覚めるとまた秩序だった活動が可能になると言ふ。その一方で、睡眠は雑多な記憶を整理整頓するというから、こりは秩序化のような希ガスる。いったいどっちなんでしょうね?

 主観と客観の狭間で進歩したものが科学だと言われる。主観(こころ)と客観(ぶつ)を切り離して、物を観察、推論、記述して体系化したのが物理学です。対象はあくまで主観の外にあります。しかして主観(意識やクオリア)を研究しようとすると、それは対象になりますから必ず客観化します。研究しようとすると主観は変質して客観化された主観という変なものになります。これは必ずそーなるんです。

 そもそもクオリアという感覚質(赤の赤らしさや夕焼けの美しさ)の本当のところは決して記述できません。ある特徴を捉えて記述はできますが、それは経験した人にしか伝わりません。自分と同じ経験ができるのは自分だけだからです。目の見えない人に夕焼けの美しさはどんな記述をしても伝わりません。すなわちクオリアは自分自身(主観内?)に閉じているわけです。

 記述できないものを科学として研究することは可能か?私的言語は他者に伝わるのか?記号たる数の体系(数学?)でクオリアを記述できるのか?これが意識の研究に突き付けられたハードプロブレムなんですぅ。ホンマデッカ?