4月13日(水)コロナ騒ぎが少なくなったら、戦争騒ぎで気が滅入る。

 薄雲に覆われた薄晴れ。15.2℃~26.4℃、46%。7000歩。今日も夏日。明日はさむうなりそ。

 今日のKOVID状況:都の新規感染者数は8253人で前週より4.6%の減少、重症者数は23人、死亡5人でした。依然として高め安定。

 

 日常の裏側:

 実はごく当たり前で当然のことなんですが、社会的に隠ぺいされているため普段は気づかないことは多いです。現在では誕生や死亡の殆どが病院内に閉ざされていて、人の目にはあまり触れません。

ところが大災害や戦争などで日常が壊されると、生き物としての本質が突然白日の下に晒されて、おたおたするのです。TVなんかも死体は放映しないことになっていますが、今回はなぜか大々的に露わにされて、ノー天気な国民にショックを与えました。

 でも、こういうのはアハ体験みたいなもので、一度体験するとあっという間に日常に組み込まれてしまいますから恐ろしい。どんな悲惨な出来事でも馴化して慣れてしまうんすね。(嗅覚と機序が似てますね?)

 もともと生きると言うことは、もっと激しくて生なましいものなんです。スーパーでパックされて清潔そうなお肉やお魚などの生鮮食品は、みんな生きていた他の生物なんです。特にお肉は牛や豚や鶏を屠殺して、血を抜いて、解体してお肉にしています。みんな見えないところで処理されます。

 この辺にすごく敏感な詩人は、大漁でみんな喜んでいる傍らで、「浜はまつりのようだけど 海のなかでは何万の イワシとむらいするだろう」と詠んでおります。でもあまりに敏感だと生きていけないですね。なぜなら今現在でも世界中で残酷な事態はいくらでも起きておりますから。でもその上で少なくとも見えている範囲で共に悲しみ支え合うことを放棄してはいけないような気がします。

 「鈍感でなければ生きていけない 敏感でなければ生きている甲斐がない(チャンドラの箱より)」