10月30日(火)同じとはナンダ?

 今日も快晴!夕方少し雲でる。12℃〜23℃、40%。朝も夕も富士山がはっきり見えました。





 同一基準でGO−:一即多、多即一。


 人間は何でも同じにします。個別の犬や猫はそれぞれ違った特徴があり、違った行動をしますが、それらの違いを捨象して、本質は同じだと見做し、「犬」や「猫」の記号を付けます。そう、言葉っちゅうのは個別の違いを捨てて抽象したものなんすね、実のところ。最近、AI(人工知能)もどういうものが猫かという特徴定義を与えずに、大量の猫画像を見せたら、猫の特徴を掴むことに成功しました。つうことで、AIも特徴抽出という面では大分人間に近づいてきましたが、自律性(何をやるのか分からない)はまだまだです。

 一方、動物はこの世にあるものは一つとして同じものとして見ません。ぜーんぶ違って見えちゃうんすね。だからポチと呼ばれても、飼い主の音の高さでないと違う呼ばれ方をしたと認識します。すなわち、動物は全て「絶対音感」の持ち主なんす。これは視覚にしろ嗅覚にしろ同じで、全て絶対量で認識してるんす。人間は言葉という同一化プロセスで、絶対性を失ってしもたんですぅ(訓練で一部の人は先祖返りでけますが)。ある能力を獲得すると、別の能力が衰えるというバランスはイロエロなところに見受けられます。風景を総合的に判断して、重要なところだけ取捨選択でけるようになると、細部を瞬時にとらまえる瞬間記憶力は衰えます。チンプにディスプレイの画面上で、1から9までの数を0.1秒見せただけで、その位置を全て順番に指し示す実験は有名です。ヒトは1秒簡見てても、再現率は極めて悪いです。

 世界を同一基準でカテゴライズして言葉を作った人間は、それで記録や歴史や文化を作りましたが、それによって世界の多様性を失ったと言えます。時には、敢えて言葉から離れて、音楽や絵画の個別性を味わうのも、この欠落を補償するものと言えるでしょう。そして、何処を見ても規格化された同一化の都会から離れ、大自然の多様性に触れるのも、極めて大切なことだとおもひまふ。どもども。