3月31日(日)復活祭。わかるとはそれによって自分が変わることである。

 薄い雲の掛かった白っぽい晴れ、夕方少し雲出る。12.2℃~28.1℃、28%。1800歩。東京都心の今年初の夏日なり。汗ばむ。黄砂の影響で遠方どんより。

 やはし彌生もあっという間に過ぎ去りましただ。Imperfect Days !

 

 

 わかるとは:自分が変わること?

 んじゃ、自分が変わらねば、解ったことにならないのか。知識を仕入れて納得だけするのは、単に知っただけになるのかな?例えば、泳ぎ方を机上で勉強しても、実際に泳げるようにならなければ、泳ぎ方が解ったとは言えません。

 深く理解する=解るということは、心から納得して自分自身の心や行動がそれによって成長し、変わらなければならないということは、かなーり厳しい要請ですが、こりは全ての学習、修行、訓練に共通するものです。たとえば、将棋の指し方が解っても、将棋に勝てるわけではあーりまへん。いわゆる1万時間の法則とかで、ながーい間継続してかだらで納得しなければなりません。

 でも、いくら「わかることにより自分が変わらねばならん」とは言え、単に知ってるだけでも知らないよりかは、かなーり進歩したのではあるまいか?そりは単に物事を分けて分類しただけで、「分かった」という範疇なのかな?

 そもそも物事に真実というのは有るのか?(存在論)、物事の真実というのを知ることができるんか?(認識論)ということもありまふ。科学的真実だって、いわゆる仮説が暫定的に定説になっているだけで、その内にもっと強い仮説が現れるということは、科学史的な事実です。それが分かってなんぼのもんじゃい!

 

 「分かる」も「解る」も、ものごとを分解してその機構の細部を知ろうとする試みです。たとえば時計を分解してその中の機構を知るとか。わかるには、もう一つ「判る」というのもあって、こりは「判断」できるということです。後者の方が「わかる」の実態に近いのかも知れませんね。自由意志の問題もありますが、「人間は選択できる動物である」というのは、実際に生きていく上で必須ではあるまいか?いやいやいやいや、こりは人間だけでなく全ての生物に当て嵌まりそーですね。だってそーやって、生物というのんは続いてきたのですから。ジャンジャン