10月18日(水)蟋蟀在戸。知らなければ無いも同じとは。

 秋晴れときどき秋曇り。13.7℃~24.4℃、45%。3000歩。秋の虫が鳴き始めますただ♪コロコロコロロ♪

 

 認識論と存在論

 事物が在るか無いかは、それを認識しているかしていないかに掛かっていることは良く知られておりまふ。こりは自然現象でも社会事象でも同じです。

 例えば近年異常気象が極端に増えたと言ふ。50年で5倍も増えたという説もありますが、こりは人間が居住地域を増やしたことと、後進地域での行政組織が整備されたので報告がきちんと為されるようになった影響が大きいとゆわれます。すなわちそれ以前は異常気象による災害が起きていても報告されないから、統計上は存在しなかったと。

 こりは病気などが増えた時にも見られる現象です。新しい診断基準が整備されたり、病気のマーカーが開発されたりすると、ある病気が急に増えたりします。近年前立腺がんが急に増えたのはPSAテストが増えたのと相関しちょりもす。

 国が隠したために無かったも同然という現象もありました。戦時中の1944年の東南海大地震とその後の三河地震では5万戸近くが倒壊流出し3000人以上が無くなったのに、大本営が隠していたので、戦後まで誰も知らずに無かったも同然でした。

 ま、大昔のスペイン風邪では何千万人も亡くなったと推測されちょりますが、その実態は今でも霧の中。つーような具合で、政府中枢でも嫌な出来事は隠せば無いも同然と、データの隠蔽、改竄の誘惑に駆られるのでしょうね。

 民主主義の大本は情報の透明性にあることは確かです。政府が「真実を知らしむべからず、寄らしむべし」になったら民主主義崩壊の兆しとなりまふから要注意のことよ。ジャンジャン