薄晴れのち薄曇り。9.7℃~18.8℃、50%。今日も暖かでかっふん多し。大相撲始まる。下剋上の悪寒!
世界を記述する限界とは:
今まで、我々の感覚がどれくらい外界を認知できるのかと言ふ、そのあやふさを縷々述べてきますた。がっ、記憶というのも容易に変化し改変されるというのもイロエロな実験により確認されちょりもす。こりは自然に変わるし、自分でも変えれるし、他者からの誘導によっても変えられまふ。
更に文章が世界をすべて記録でけるんか?というと、これにも限界がありまふ。これには記述の限界と、言語自体に限界があるということも分かります。そもそも言語というのんは「同じ」をキーにして作られたんすね。
現実世界の個物はすべて異なります。それでは言葉を作れないから、例えば「りんご」というのは丸くて赤くてサクッと噛めて酸味と甘さと香りで同一と認められたものに記号を振ります。最近は青いりんごもありますが、その都度同一化の範囲は変化するのも言語です。だけど、なんらかの本質を同一化をしないと記号を振れません。
例えば、でこぼこした土地をぬぼーっと見ていても言葉は生まれません。出っ張って高いところを同一とみて記号を振ると「山」になります。そして平たい土地を同一化すると平野になりまふ。すなわち違いを認識して同じようなところを同一化したわけです。
言語の成り立ちがこのようなものですから、複雑な世界の有り様を言語ですべて表現することなど、原理的に無理だっちゅうことが分かるでしょう。すなわち言語化できない世界が山のようにあるんですから、言語で考えた理屈っちゅうのにも限界がありまふ。
記号が有効な世界は、あくまでも世界を切り取り同一化されたところだけだっちゅうことですか?その最たるものが数学でしゅ。理想化し記号化された世界を論理的に把握するというのんが数学でしゅ。理想化された三角形は現実世界には存在しません。理想的な円も現実世界には存在しません。「1」もあらゆる個物を同一化したんですね。人も犬もミカンもバナナも一つなら「1」といへまふ・・・ん?時間が来てもうた。この項続くかも?