2月20日(月)土脈潤起(大地がうるおい目覚める時期)。意識を意識するとデカルトになる。

 雲の多い晴れ時々曇り、夜の始めころ一時少雨。6.9℃~14.7℃、31%。4500歩。

 久しぶりに日本橋に行く。ブーランジェリーでクロワッサンを買い、ニンベンで粉カツオ節と濃い味だしを購入、向かいの三越で画廊を覗く。自然を題材にした西野陽一の日本画と増田将大の個展をやっていた。後者は特殊な技法で記憶と時間を2次元に焼き付けたとても印象深い作品でした。ああ、西野陽一の自然画も安定した良さを出してました。

 

 意識と無意識のあわい:

 意識は後付けの合理化を図るということは、これまでも縷々記述してきますた。また、我々の日常生活のほとんどは無意識下で為されておりまふ。だって足の運びや箸の上げ下げまでいちいち意識して生活してないでしょ?

 意識的な行為はどこかぎこちなくなっちゃうんですぅ。いくら意識的に学習して知識を増やしても、スポーツや技能、演奏や絵画などは上手くなりません。泳げもしないし自転車にも乗れません。いわゆる知識なんてそんなものなんすね。2万時間かけて、無意識に刷り込んで身体に覚え込ませないとものにならないんです。

 無意識的な行為にならないと本物にならないという矛盾!でも発意は意識して意図的にやらないと出来ないような気もします。これもそんなにシャカリキにならないで、軽い気持ちで習慣化してしまえばクリアできそーです。でわ、意識は何のためにあるのか?それが問題だっ!

 識者によれば意識は秩序だった行為に欠かせないと言ふ。すべてを無意識に任せると、ときにはトンデモナイことになりかねないと。それで後付けでもいいから、その行為の合理化を図ってるんだと。

 こんな実験がある:チョイスブラインドネス(選択盲)といひまふ。2枚の顔写真を見せて気に入った方をチョイスさせる。手品で写真をすり替えてチョイスしなかった方の写真を被験者に見せて、なぜこの写真の顔が気に入ったのかを尋ねると、ホントは選ばなかった写真なのに、その写真で気に入った特徴を滔々と述べるそーです。ほとんどの人がそーなります。

 人間といふのは、こういう後付けを無意識的にやらかす生物なんだすぅ。こういう点では論理的なんてくーだらないと思いまふ。でもね、無意識はどこへ我らを運んでいくか分からないから、論理で秩序付けするのは文明生活にとって必須なんだすぅ。いつでも好きなタイミングで指曲げて見てと言われても、そのタイミングはどこか規則的になっちゃって、まったくランダムには選べないんでっすからぁ。意識は根っから秩序的なんだすぅ。なんでやろ?なんなんなんでやろー?ん?