7月10日(日)浅草四万六千日。投票日における一つの考察とは。

 白っぽい晴れ時々薄曇り。24.3℃~31.8℃、59%。7400歩。真夏日。南風やや強し。

 今日のCOVID状況:都の新規感染者数は9482人で前週より150%の増加、重症者は27人、死亡1人でした。

 

 死に票とは:

 民主主義の選挙はポピュリズムに陥りやすいと言われてます。真に国の将来を考えるのではなく、甘言を弄して人気取りに走る候補者が票を集めやすいと。それから政治にはまったく興味も関心もないのに、昔のアイドルだったというだけで票を集めたりします。こういう候補者の尻馬に乗って投票すると票は生きるかもしれません。

 でもそれで票は生きたと言えるのか?そもそも票の生き死にとはなにか。受かった候補者の票は生きていて、落ちた候補者の票は死んだのか?どちらにしろ、この考え方自体がまったくセンスがないと言えるでしょう。いわゆる問題の立て方自体がナンセンスである不良設定問題と言えるのではナインか?

 もそもそ当落は結果であって投票行動を遡って良否判定するものではない。選挙はある意味で下らないが、これを最高の候補者を選ぶのではなくして、最低の候補者を落とすためにあると考えればどーか?いやこれでは少しニュアンスが異なるな。最低の候補者を落とせる可能性はある、くらいが適当かな?

 こういう可能性さえ担保されていれば、どんな候補者も出鱈目をやったら次はひょっとして落選するかもしれないと思って、少し自重するかもしれません。この自重プレッシャーこそが選挙の目的ではなかろーか。そーなると選挙の当落よりは票の比率が問題になってくるわけです。ぎりぎりの票差で勝つのとダントツに勝つのでは、当選者の自重度に大差が出てきます。また落選者のやる気維持にも大きく影響します。

 つうことで単なる当落で生き死に票を判断するのは、選挙の根幹を理解していないと言へるでしょう。もともとふわふわした人気投票で政策の支持とか信用度の認定などの大それた価値を担保できません。そもそも人に自由意志はあるんか?という課題にまでさかのぼれば、認知神経科学の定説ではヴィートウ(拒否権)だけはあるらすい。

 出鱈目したら落とすよ!つうビートゥを有効に働かせるにはどーするかっ?つう観点から選挙行動を点検してみると、なにはともあれ勝ちそうもない人でも直感で投票するに如かず。棄権や白票はなーんも意味ありません。かな?かなかな?