11月25日(水)敢えて考えなかったことを無理に考えてみるテスツ。

 細雨しょぼしょぼ、昼すぎから曇り。9℃~12℃、87%。気温低め安定。晩秋の終わり近し。

 

 しむとは:

 死にたいする態度というのは人それぞれです。しむのは嫌だな~、と子供の時から絶えず思っていたのはギドーさん。それで死をズーッと考えてるうちに哲学者になってました。自分とはナンダ?を突き詰めると死の問題に突き当たります。何処からきて何処へ行くのか?父母が生まれる前の自分とは何か?死んだ後の自分とは何か?を考え続けてるんですね。そしてその考えてること自体を考えるようになります。

 一方、自分は死なないもんね~、ズーっと生きてるんだもんね~♪という人もおります。主観的に生きてる芸術家に多いです。1人称の死はありえない。なぜなら自分が死んだら自分では何も分からないのだから、と養老さんは言ってます。これは一理ある!自分で自分の死はぜーったいに認識できないのだから。3人称の死はその他大勢の死で自分には無関係な統計に過ぎない。一番つらいのは身近で親しい2人称の死だというもの分かります。でも自分の死は自分ではわっかりませーん。

 んで、自己意識のない動物の死は、そもそも死なんて考えないのだから、無いも同然。一生懸命今ここを生きてる内に、ある日突然それが中断されるだけ。物心がついたら生きてた!との反対側が死なんですね。気がつかない内に死んでた、というのが動物的な死です。なんかこれが一番自然な気がしますが、林檎を食って死を知ってしまった罪は極めて重いと言わざるを得ませんね。

 そうそう、自分は死なないもんえね~♪というのの亜流が宗教的な復活と永遠に神の国に生きるというやつです。心から信じ込めれば、あんがいしやわせかも知れんです。でも、変な合理主義に染まってしまうともう元には戻れません。それであれこれ理屈を考えている内は巣食われません。

 もともとは無から発し、また元の無に還るだけだと観ずれば、こりはもう宇宙の成り立ちと同化できるんではなかろーか。それでもまた死んでしもた懐かしい人々に再開したい気持ちはもりもりと残っている矛盾。どーしてくれるんじゃい!タハッ