終日、本格的な曇り空。18℃〜20℃と気温差少なし。秋少し深まる。
少し斜め下方に目を逸らしつつ、死を見つめてみた:
「明日ありと思う心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」(親鸞)
「良寛が 辞世を何と ひと問はば 死にたくないと言うたとしてくれ」
「裏を見せ 表を見せて 散る紅葉」・・・しむときは誰でもボケて垂れ流し
「散る桜 残る桜も散る桜」・・・どんなに美しいものも生命の摂理には
「形見とて 何か残さん 春は花 夏ほととぎす,秋はもみぢ葉」・・・庵のあとには自然のみ
・子どもの好きな良寛さんが大好きだ。「死ぬのは嫌だっ!」と認めるのは、何か恥ずかしいし、「死ぬのなんか屁でもないやィ!」と強がってる方がかっこイイかもしれない。自分に逆らわないことなんすね。「死にとうなーい」つって死んで逝った良寛さんはかっこいいと思いました。
「今までは 他人(ひと)のことかと 思うたに 俺が死ぬとは こいつぁたまらん」(蜀山人)
・これも自然体ですねぇ。よほど自分を客観視でけないと言へないことの葉。
・生命が実体ではなくて作用だとしたら、生きている内に行(おこな)ったイロエロな行動は作用としてきっとどこかに伝わっているはずだ。誰かの記憶の中か、何処かの落書きとして。
「太陽と死とはいずれもじっと見つめることができない。」 (ラ・ロシュフーコー)
・う〜ん。さすがに死を見つめるのは眩しかったぁ。でも仮に死と言ふ概念が無かったら生(la vie)と言ふ概念も生じなかったでしょう。昆虫のように交接が終わったら、ポトリと落ちてハイさようなら