終日小雨しとしと。13℃〜15℃、88%。
死とは:
経験論者が経験できないものの一つに、自分の「氏」があります。見れるのは、人の「氏」だけなんすね。自分が「氏」むのは絶対に分かりません。何しろ「氏」んじゃうんだから、意識も思考も感情も感覚も、何もかもが失われます。もうすぐ「氏」むんだろうな?つうのは想像できますが、経験はできません。それは人の「氏」からや、臨氏経験からの類推に過ぎません。全身麻酔したときの経験や、失神した時の体験、あるいは自分が生まれる前の状態の想像から、何もない「無」の状態なんだろうな?と類推はできます。ま、どうせ経験できないんだから、どう思おうと勝手だよね?つう人もいて、死後の世界のイマジネーションは広がります。因果応報から最後の審判や天国と地獄、極楽往生などなど。この辺はもう思い込んだ方勝ちで、生前に良いことをしたり、あるいは宗教の敵を虐殺したりすると、氏後は酒池肉林で一番若かった頃の姿で永遠に生きれるのだ♪なんてのは泣かせます。ハイデガーは避けられない自分の氏を常に意識して生きるのを本来性、日常の生活に埋没して氏から気を散らして生きるのを非本来性とかゆってました。いや、どっちがイイのかの価値観は別にして、確かにこの二つの生き方があるとは思います。生物、動物としての本質から言えば、氏なんか意識しないでその場その時を懸命に生きる方が本来性なんじゃないか?とは思いますが。人間は脳を発達させ過ぎた過剰適応生物ですから、氏に向けた何らかの安全弁は必要でしょう。宗教とか自己滅却とか共同体への一体化とか単なる思い込みとか。でも、そんなものが何も信じれない現代合理主義者はホントは可哀そうなのかもしれませんね。ともあれ、時期が来ればみんな一様にあっちへ逝くんだと思えば、なにやら平等であるような気がして安心できます。
「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候、死ぬる時節には死ぬがよく候、是はこれ災難をのがるる妙法にて候」
「散る桜 残る桜も 散る桜」(良寛禅師)