2月2日(土)初午。二分法、2項対立の陥穽。

玉虫備忘録:

 白っぽい晴れ。-1℃~13℃、35%。南寄りの風で、昼間の寒さはややゆるむ。

 八丁堀から小伝馬町、中目黒方面に転進し、ギャラリー巡り。コンセプチュアルアートとディジタルアート。外延から攻めるか内包から攻めるか、それが問題だ。境界を定めるに方向は二通りありまふ。

 

 

コンテンツ(中身?)かアクション(行為?)か:

 こりは普通(普通ってなんだ?)コンテンツの方が優先するように思います。なんたって中身を伝えるために行為してるんすから。コンテンツが古くなったり賞味期限が切れたりするとオワコン(終わったコンテンツ?)になります。

 すかす、中身よりか行為自体が意味を持つことも往々にして見られます。例えば、ケアの現場で、ただただ一生懸命に聞いてあげると、話者はその話の中身によらず話す行為自体で救われるんですぅ。一生懸命に親身になって、自分の話を聞いてくれる人が目の前にいるだけで、自分は無価値ではないと実感するんですぅ。

 一方、話す行為はつたなくても(例えばブロークンイングリッシュ)、話す中身が画期的で感動的なら、流暢に英語を話す人よりも聞いてる人に感銘を与えるでしょう。つまり、その時々の文脈で重要性が変わるんですぅ。

 話すという行為も当然その文脈で変わります。報連相(報告、連絡、相談)が大切な社会生活では、手短に要領よく正確に伝えることが重要になります。しかし、まったりと休んだり親睦を深めたりする家庭や友人との雑談では、中身よりも話すという行為自体が大切です。

 この辺を弁えない社会生活が長かったおっさんが、家庭に戻った時に「いつまでぐだぐだ話しているんだ。もうちょと要領よく手短に話せんのか!」とかイライラし離婚されたりするんですぅ。もちろん、この逆のケースも当然ありえますが。

 要するに、いつも正しいとか、いつも間違ってるなんてことは少ないんです。だから、自分の正論に拘って近頃のビーテレはオワコンだあああ!なんて独善的なことを言ってはいけないんす。でも、報道機関がすべて茶の間の雑談になってしもたら、これはこれでおバカな社会が現出するでしょうね。ジャン