7月5日(木)少なくとも、馬鹿な奴らが威張らない社会を守りたい。

 曇り時々雨。25℃、29℃、74%。久しぶりに30℃を切ったが、湿度高く、南風つよし。だるい。極めてだるい。

 




 強くなければ生きていけない、優しくなければ生きている価値が無い:

 自然界はある面では弱肉強食である。中には寄生や共生という生き延び方も見られるが、基本的には闘争か逃走である。しかし、同種の中での争いは、配偶者獲得以外ではあまり見られない。その中において人類は、同種間で絶滅闘争をする珍しい種と言えるであろう。闘争本能が深く刻み込まれているため、理性でこれを押さえることが極めて困難であった。しかし、個人単位で闘争を行えば自滅は目に見えているから、それは犯罪と断罪し、闘争は集団単位となる。その集団が次第に拡大していき、今では国家、あるいは国家群のあいだの戦いとなり、世界大戦が2度も引き起こされた。

 各国にある武装組織は、必ず「防衛」と名付けられている。侵略省とか攻撃省というところは一つも無い。それでも侵略は起きる。それは人間のストリーを作る本性故である。事実よりもストーリーを好む思い込みの弊害が、枯れススキを亡霊の脅威に育てるのである。このようにして各国は、それぞれの仮想敵を作りだし、怯えの余り過剰反応を引き起こすのである。そして、実際に過剰反応が起きてみれば、それは現実の脅威に転じるのである。この様にして、元来何もないところから、戦争が引き起こされるのである。この場合の正当化理由付けは「攻撃は最大の防御である」となる。

 ときには政治家が保身のため、あるいは権力奪取のために、あえて脅威を作りだし、それへの対処のためと称して軍備を拡大することもある。そして反対する勢力を抑圧するあらゆる手段を準備する。いわゆる警察国家、強権国家である。もちろん軍備はあっても、それを民主的に運用する国が大半であるが、東アジアにおいては必ず権力闘争が生じ、勝った者が少数意見を弾圧する強権に陥りやすいのは、歴史、文化の為せる業であろうか?

 相手の脅威におびえて、自国を住むに値しない強圧国家にするのは、まさにはっきりと申し上げて、倒錯的な成り行きである。守ろうとして、守るに値しない(相手と同じような)国に変わると。これでは戦う前から、その価値において、まさに負けたも同然ではなかろうか?住みやすい自由で民主的な国を守ろうとして、戦う前に既に不自由で非民主的な情報統制社会になっては、それこそ国を張ってる価値が無いと。(インスパイアードbyフィリップ・マーロウ