5月23日(水)元始、女性は太陽であった !

 曇りのち雨。17℃〜22℃、56%。




 日本史とは:

 なんと(南都?710年)大きな平城京、鳴くよ(794年)ウグイス平安京というのは受験の思いで。8世紀は方々に都ができた時代(飛鳥京藤原京平城京長岡京平安京)ですぅ。大まかな人口推移を見ると、縄文時代約30万人、弥生時代約60万人、奈良時代約550万人、平安時代約650万人と、今の1億3000万人から桁違いに少ないんですね。その後、鎌倉時代約750万人、室町時代約800万人、江戸初期約1200万人とようやく1千万人を超えました。これらは農業技術の発達と開墾の歴史と言えるでしょう。

 縄文、弥生時代の日本は、今の東京の一つの区の人口が、日本全土に散らばっていたわけですから、如何にまばらかが分かるでしょう。奈良、平安時代でも、今の1/20くらいの疎らさですぅ。方々に追いはぎや山賊が出たのも頷けます。すかす急速に人々が都に集中したため、周りの山野が禿げ山になり、それが為、自然災害や公害、疫病が蔓延し、これが都を頻繁に移転せざるを得なかった理由だと言われちょりもす。京都は、琵琶湖の流れが有った為、長続きしたんだと。

 そして11世紀から12世紀にかけて、日本文化の源流が大変動を起こしたんですと。それまでは、どっちかっつうと女系家族が主流で、通い婚や入り婿などが行われておりました。その代表が、帝の母方の貴族が摂関政治を布いて政治を牛耳っていたことだすぅ。しかし11世紀末くらいから、次第に男系社会に変貌したんですぅ。その大元は、帝の父である上皇院政を敷くようになり、政治が母系から父系にシフトしたことでやんすよ。更に上皇の近衛軍である北面の武士などが力を付けてきて、地方武士団も台頭し世は一気に武家社会に変貌したんであーる!

 並行して、馬や鉄器が社会に広まり、開墾が進み、コメの収量が飛躍的に増加したんですぅ。ここに価値を米で計り、家の子郎党を中心とした、御恩と奉公による男の結びつきが中心の男系社会が確立して行ったんだすぅ。卑弥呼や天照、はたまた数多の女性天皇を輩出した文化が、大きく右に舵を切った瞬間ですぅ。千年の歴史の影響は極めて大きいが、人間本来の平等を実現するに、遅いと言うこたーあーりまへん。どや?(クレジット バイ 古代オタクの友人ですたあああ!)