3月3日(土)桃の節句、ひな祭り。才能とは気づくものである。

 晴れときどき曇り。3℃〜16℃、37%。花粉非常に多い。プールだん。


 才能とセンスとは:

 人には、正解の有る問題(ペーパーテスト?)を早く正確に解く才能ばかりではなく、イロエロな、それこそ無数の才能があるとゆわれてます。でも各個人個人に与えられている才能はそれほど多くありません。しかも、自分では極当たり前のことを当たり前だと思って、普段からやっているので、その才能に気が付かないことが多いんですね。

 或るとき友人が、「あれっ?おまえすげーじゃん!よくこんな昔のことを細かく覚えてんなぁ。」とか、先生から、「きみの絵には引き付けられる。表現が豊かだし、色彩感覚もするどい。」なんて感心されて、始めて自分の才能に気が付いたりします。自分では、当たり前にやれてたから、特殊で優れた能力だとは思わなかったんですね。

 ・・・どんな才能かは分からねども、自分にも人に秀でた才能が有るかと思えば、なにか自信が持てそうですよね。そう、スマフォゲームがつおいとか、人の顔を忘れないとか、雑草の名前は全部知っているとか♪必ず何かがある筈だっと!・・・カーリング競技を見ていて、トンでもない妄想が湧き起こってきますただ。そう、彼ら彼女らを床掃除に使ったら、すごい才能を発揮するのではアルマイト。きっと日本一、世界一素晴らしい床磨き人に成れるでしょう。ど、どもども。



 砂山のパラドックス:砂山の、すうなあを指でほってたら〜♪

 ソリテス(砂山)・パラドックスというのを知った。量が質にいつ転化するのかが曖昧な状況を指すらしい。

 前提1:砂山は膨大な数の砂粒からできている
 前提2:砂山から一粒の砂を取り除いても、それは依然として砂山のままである。

 前提2を繰り返し適用する(砂粒を1つ1つ取り除いていく)と、最後は1粒の砂が残る。前提1が真だとすれば、このような状態は砂山ではなく、前提2に矛盾する。ってなアフォみたいなパラドックスでやんす。


 逆に禿頭のパラドックスというものある。
 前提1:髪の毛が一本もない人はハゲである。
 前提2:ハゲの人に髪の毛を一本足してもハゲである。

 ここで前提1に前提2を繰り返し適用していく(ツルッパゲの人に1本ずつ植毛していく)。そして次の結論を得る。
「よって全ての人はハゲである」


 これはすなわち、ある概念(名前)の境界がハッキリしない問題です。「である/でない」の二値に対して境界があいまいなときに発生しがちです。「多い/少ない」や「高い/低い」などの相対化できる述語も、基準の合意がなければ正確には伝わりません。砂山も、砂場の小さな砂山から、海岸にある大きな砂山までたくさんあるし、個人が何を砂山と思うかの尺度もバラバラです。そういう各個人のバラツキと、砂山から砂山度がだんだん減少して、最後は砂山で無くなるまでの離散的なグラデーションをちゃんと定義できなければ、この問題は解決しません。ども。