9月4日(水)馬鹿なやつらが威張る時代にはしたくないもんだすぅ。

 概ね曇り。23℃~27℃、76%。湿度は高いが、かなーり過ごしやすい。スウィミングだん。

 

 

 リカーシヴ(回帰的)な言動とは:パリ国際大学都市での極右講演騒動と表現の自由

 自己言及的(回帰的?)な文章は、ときにループをなし矛盾を生じることがある。特に否定的に自己言及すると矛盾のループから抜け出せなくなるのを、ラッセルのパラドックスと言ふ。これは集合論の土台をゆする発見だったが、分かりやすい例では「クレタ人のパラドックス」がある。「全てのクレタ人は嘘つきである」とあるクレタ人が言った。真か偽か?仮にこの文が真なら、あるクレタ人はほんとのことを言ったから、この文は偽になる。仮にこの文が偽なら、あるクレタ人は嘘を言ったのだから、この文は真になる。つうように発振ループしまふ。

 近年、ネット上の詭弁合戦が過熱するにつれ、「表現の自由を制限する表現の自由はあるのか?」とか「ヘイトを憎むのはヘイトなのか?」とかいうまことにソフィスト的な言葉遊びに堕している議論を見かけまふ。差別や戦争礼賛の言動を排除するのは、言論の圧迫なのか?なんつう下らないのまで出てきます。文章の形式主義に片よらずに、普遍的価値に基づかないと変なループに入り込んでしまいます。

 表現の自由には方向性があり、権力が自由な表現を押さえるのを禁止するものであり、一般人が公権力を批判するのを押さえるものではない。また悪を憎んだり、差別者を憎むのはヘイトではあーりまへん。なんでもかんでも相対化して、形式化するとアフォのジレンマに嵌りまふ。どもども。