2月20日(火)土脉潤起(どみゃくうるおいおこる)、大地がうるおい始めるころ。

 快晴!3℃〜12℃、29%。プールだん。



 主観性とは:脱出できない檻なのか?

 主観とは客観ではないことであーる、客観とは主観でないことであーる。なんて言ったら、トートロジー(同義反復?)というのかな?タハハ  語源をたどれば、主観はsub-ject(下に、置く)、客観はob-ject(向うに、置く)となります。すなわち、主観は自分の内側(下)を観ることであり、客観は自分の外部(向う)を観ることなんですね。

 理性による合理から発した科学は、何ごとも客観的に観測することから始まります。ここで主観たる意識の問題を科学的に分析できるのか!っつう難問に突き当たります。そもそも観測とか測定というのは、ある基準(ものさし?)に対応させ(当て嵌め、写像し、マップし、射影し、)て客観化されます。しかるに、主観性の問題は外部に確固とした基準を持てないことにあります。自分が感じている色の鮮やかさや、素晴らしい演技に対する感動などは、外部の他のものと比べるすべがありません。

 辛うじて比べれるものは、自分の内部での比較です。つまり自分の経験の中での比較で、それを近似して外部に伝えると。今までの痛みを10段階に区分して、今の痛みはどの位置にありますか?とか。あなたの今までの感動を10段階に区分して、今の感動はどれくらいですか?とか。つまり、自己相対化して外部に伝えるしかナインですぅ。これではとても客観性のある数字とは言えませんね。自分がビビッドに感じているクオリアは、近似的な表現でしか他者に伝えられません。

 でも、機能的な問題や近似されたクオリアは、脳内にマップできますから、制限された範囲での研究はできます。すなわち、疑似客観化された主観の研究は出来るでしょう。特に、推論や判断などの論理的な機能は客観化して外部に持ち出しやすいでしょう。感覚質も完璧を目指さないのなら、共感や拒絶により外部化できるでしょう。

 もともと人間の認識は、近似による要点掴みででけテルんすから、贅沢ゆわなければ、ぼちぼち研究も進歩するかもね?少なくとも、ある/ない(1/0)で進めれるディジタルな範囲内では。すなわちAI(人工知能)の範囲内では、でごんすよ。ドンモドモドモ




 読み方は読者の自由なんであーる:

 筋を通せば角が立つ、情に篤いと流される、主張ばっかしだと嫌われる、結局なにをやっても同じなら、好きに生きようではござらんか?(草枕冒頭の玉虫曲解)