7月18日(土)ココロのボスはだれそ?

 午前中雨、午後から曇り。19℃~22℃、97%。6100歩。

 マンションの総会があった。椅子の間隔を拡げて窓はすべて全開して密を避ける。風が通るので半袖だとちと寒かった。イロエロと修繕箇所が出ている模様。コロナで今年は懇親会や防災訓練も中止する。

 

 主観の投影:

 ココロのボスってのは赤塚不二夫ちゃんに出てくるキャラクターですが、心の主人公は誰そ?たそかれ(誰そ彼)時は闇が迫って人を判別できない夕暮れ時。 かはたれ(彼は誰)時は夜明け前。優雅なりやまと言葉

 主観というのは自分にとっては自明ですが、他人からみるとあるのかないのか分っかりませーん。だから科学には乗りにくいのですね。なにしろ反証可能性というのが取り辛いのですぅ。主観を調べようとしたとたんにそれは対象になり客体となってしまうんす。そこにはもうヴィヴィッドな感覚はありません。考えたり感じたり感動したりはみんな内側に閉じてしまってるんです。ハレハレ

 そうそう網膜を自分では見えないのと同じかな?鏡を使ったり写真を撮ったりして外部化すれば見えるんですが、自分の網膜を自分で見たり感じたりすることは絶対にできません。視覚として見ている主体(網膜)は見えないんです。でも外部から客体化すれば見えると。自分の心も内観して自分で記述することは出来ます。でも、それが他人と同じなのか?は永遠に分かりません。

 自分の心に現れる現象を先入見なしに記述する現象学的方法も似たようなものですが、それも自分に閉じています。それでは普遍性をどーやって求めるのか?そこで間主観性というのを導入して、準客観的なものにしました。しかし、これは言語に頼るところが多く、言葉で表現できるものにしか間主観性が及ばないのです。ま、それでも普段暮らしている分にはあまり障害にはならないのですが、感覚や美しさや感動をそのまま直接伝えることはできません。だって人の痛みをそのまんま切迫して感じることは永遠にできないんですから。ザンネン