2月11日(日)建国?だんだん頭がぼけてくるのは、論理(理屈)の桎梏からの解放か?

 曇りのち晴れ。5℃〜14℃、46%。暖か。梅の花がほころび始めた。

 今年は羽根木公園にゆってこようかな♪むかしこの辺りに住んでたんだ。梅まつりを見て、駅前の美登利寿司を食べるのが定番だった。車に乗ってたから、世田谷の迷路のような道にはかなーり詳しいです。




 視点の問題:理屈は必ず矛盾に到達するのか?

 例えば、円柱形を真上から見ると円である。真横から見れば長方形に見える。同じものを「円だっ!」、「いや、長方形だっ!」と言いあっても解決しない。同じ事実を違う視点で見ているからだ。ここにものごとを立体化する視点が必要になる。相矛盾する概念を、一つ上の立場から立体化する弁証法である。すなわち、外から離れて見る(メタ?)ことが大切なんであーる。つうことで内心(主観?)の問題を扱うのが如何に困難か分かるでしょう。哲学と宗教、あるいは科学と宗教を同じ人間の中でどうやって両立させるのか?にも同じように困難な問題がありまふ。本質と実在、あるいはイデアと現象とも言えます。これらを直交する全く違う次元の問題として、自分の内部で両立させている人は西洋では大勢おります。東洋だと、そもそも二元論化して分立させずに、矛盾したまま同在させるでしょう。一切衆生悉有仏性とか絶対矛盾の自己同一とか。

 理性(Logos)において理詰めでものごとを考えていくと、何処かで矛盾に遭遇します。これをまた論理で回避しようとしたのが西洋哲学の概念体系だと言えるのかも知れません。仏教では、そもそも分別とか記述というのをはなから回避していますからねィ。「無分別」とか、「無記の記」とか。これは一神教でも同じで、神に名はありません。ただ、「在りて在るもの」というだけです。神に名前を付けると、それで区分され限定されますから、神ではなくなってしまうと。そういう意味で、「神は万能である」とか「神は無限である」と定義した途端に、その枠に限定されてしまうという矛盾が生じます。これを回避するため「否定神学」というのが生み出され、神を否定的に定義するのが流行りました。「神は存在しないのではない」とか「神は部分ではない」とか。こうすると、それ以外の全てであるっつう意味合いが担保され、辛うじて神を何かに限定せずに定義でけるんだと。神学というのは、こういう側面だけ見ていると、なにか言葉遊びのような気もしますね。ふっ




 冬季オリンピック:みんながむばっているが、なかなか結果がでません。「オリンピックは参加することに意義がある」、ボソっと言ってみるテスツ。ドンモ、ドモドモ





 最近気になる風潮とは:

 米軍や自衛隊が事故を起こして、学校や民家に害を及ぼした時に、被害者叩きが起きるようになった。我々を守ってくれる兵隊に感謝の気持ちは無いのかっ!とか、それで何人死んだんだっ!とか。日本人が心情的に一番抗いがたいのが、こうした言説です。自分は氏んでないのに、他人の氏を楯にして自分の主張を通すのは極めて卑怯だと思います。そういうことは自分が氏んでから言ってオクレ?とか。 「そんなへなちょこ精神で、お国の為に氏んだ兵隊さんに申し訳が立つのかっ!」つう論理にもならん感情的な言い訳で、状況に適した判断がまったくできずに、300万人以上を無駄死にさせた軍事官僚の亡霊をいつまでルネッサンスと。ハレハレ






 TVドラマとは:

 今日、チビ安でやってた99.9ドラマ、むかしちょと関心を持った御殿場事件にクリソツだった。雨の有無とか、アリバイの日にちをずらす訴因変更とか。政府の方針を忖度する訴訟指揮とか。ま、陰謀論の一種にはなるんだろうけど。