11月12日(土)おお、オントロジーは存在でけるのか?


 こんにちは。秋晴れ。富士山が薄っすらと冠雪していた。
一転して気温20℃まで上がる。少し暑く感じたのは厚着し
てたから?







 言語矛盾:絶対ということは絶対にありえない。あるいは
世の中は絶対ということはない。つまり絶対に相対的なのだ!


 存在論の難しいところ:「在る」というのは、存在している
すべての事物すなわち「存在者」と、個々の存在者を存在たら
しめる「存在」そのものに分けられる。この「在る」つうのを
定義しようとすれば、「AはZである」という述語形式の判断に
ならざるを得ない。すなわち「在るはZで在る」つう論点先取の
誤謬(証明の中に証明すべきことを入れ込んでしまう)に陥ら
ざるを得ない。ま、これは文法上の問題だからすかたなかんべ
え、とおもて許しても、述語論理の要請は主語Aより述語Zが広
い意味を持たなくてはならない。つまり「人間Aは動物Zである」
とは言えても、「動物Zは人間Aである」とはいへまへん。
つまり「ある(A)はZである」というときのZは「ある」より広
い意味を持たなくてはなりませんが、全ての述語論理に使われる
〜で「ある」より広い外延はあーりまへん。結局「あるはあるで
ある。」つうトートロジー(同語反復)に陥らざるをえず、論理
で「存在」そのものを定義することはできないつうことになりま
ふ。あ〜ちかりた!














 でわどーしたらよかんべえ?「存在」そのものを定義し直接認
識することができないのなら、諸々の「存在者」(〜である、と
言えるものすべて。人でも物でも概念でもなんでもいい)が持っ
ている性質全ての中から「ある」という性質を分析すれば「在る」
に辿りつけるのではないのか?と考えたのがハイデガー氏だす。
しかし世界中にある全ての「存在者」を調べるのも面倒だから、
存在の意味に関心を持ち(関心所有)、存在を知っている(存在
了解)存在者すなわち人間存在をまず調べようとしたのれすね。
椅子や机は存在なんかに関心を持っていませんから。















 それで以後、人間存在=現存在(Da-sein)をこと細かく分析し
てゐる内に人生が終わってしまい、とーとー「存在」の本質には
辿りつけなかったのさ。それでも人間存在の本質(実存)を追求
した元祖としての業績は残っているから、あながち無意味な人生
ではなかったのかな。「存在と時間」の下巻は50年の歳月をも
ってしてもついに書く事あたわず。ナムナム














 在ること、すなわち有をより広く包むものなど無いのはあたり
前で、例えば「宇宙の果てが在った」とすれば、その外側は何な
の?つう無限連鎖が起こりますから、もともと個別の在るしか分
析でけないのれすよ。存在論を在る(有る?)をもって語ろうと
した誤謬。これはキタロー氏の絶対無でしか突破できないのれす。
無ならその外に何があるのん?なんて突っ込まれんし、なにしろ
ゼロですから何でも包み込めまふからね〜♪ぷ














 さてクオリアなんて屁みたいなものの分析をとおして、なに
か意味のある結論に辿りつけるのかどーか?その意気やよしと
するも、無駄な裸踊りに終始する公算いや論理的帰結がミエミエ
なるも物悲し!セラヴィ、セラヴィ♪ケセラセラ













 否定論理に潜む論理矛盾ってのを少し集めてみようかな?













ポッカ~~~ン












 追記:消費者の利益は金科玉条か




 あんましあからさまに取り上げたくはなかったんす*1が、
id:kibashiri氏がイイこと言ってるから言及。
五大紙がこぞってTPP参加は消費者の勝利なんて社説を掲げて
いるのへの痛烈な皮肉。「お前がどの口で言ってんの?」と
極めて説得力あり!これに反論でけるしとはいるのかな?
それとこれとは別!つうあれやこれや論以外に逃げ道はありま
へんでぇ!もちろん自由競争原理にもイイとこはあるんすから
まずは隗より始めよですかねえ。そしたら少しは自然界のバラ
ンスってのも考えるようになるのかもね。自己主張だけじゃダ
メダメYO〜。


 攘夷ぢゃ攘夷ぢゃ、生麦生米なまたまご。玉虫もホントは
真っ新な土俵で自由にやってみようかぁ!って方なんすが、国
内の有様がこんなんぢゃ、とても本来の趣旨は生かせんがなぁ。
アポロン的な建前主義。タハハ





 

*1:お互いに自然界で生息するとは言え、吾輩の幼虫が食われちゃう天敵ですからねぇ。