8月16日(金)う、うう、けふはちかれたぁ〜 時間とは

 真夏晴れ。27℃〜32℃。暑さにも大分慣れてきますただ。ちょっと気温が下がっただけで涼しく感じますぅ。遅ればせながらゴーヤーの実がドバっと生りマスタ。そろそろ収穫しようかな♪♪♪でも白ゴーヤの方はまだだ。




 最近評判の芳しからぬカネボー化粧品を調べたら7年前からカオウの100%子会社になっていたんだっ。カオウは前からネットで評判悪かったよね?カオウ首脳の、事前治験よりか販促・宣伝にかね掛けろィ!って儲け指向が幾分か垣間見れる事例ですぅ。しかし(悪事がバレない限り)儲けた奴が出世するってのは、市場主義企業社会の通例ではありまふが。タイトロープ上の世渡りではアルマイト!タハッ




 時間とは:

 空間は静的であり時間は動的であるっ!つう見解は確かにあります。変化が無ければ時間は無意味、空間はその広がりをもってそれ自体で存在している。時間の変化を時計の針のチクタクで可視化することは変化計量の一手段。時間を一方向の線分で空間化して4次元化するのも一つの手段。

 しかし時間つうのは、そがいに単純に線分化はできないものなんす。時間は、空間のように神の視点を持てない変化の移ろい。因果(原因結果)の大本。可視化出来ない身体感覚。古来、時間の概念は哲学的存在論の基礎であり、しかも誰にも演繹できないにょろにょろとした掴み難い枠組みとして考察されてきますただ。

 それゆえ哲学的な主題として数千年間取り上げられてきますたが、未だその謎を覆うベールは剥がされず神秘の彼方。ごく当たり前に実感できても、それを捉まえようとすると、スルリと手から漏れてしまいますぅ。これは意識の大本が時間であることを示唆しまふ。

 自分にとって自明なことではあるが、他人には説明できないクオリアとおんなじ。しかし数学の構造問題には、あんまし時間が(根源的な要素として)関係してきません。つうことは数学的な構造が、自分と他人を結びつけるツールとして作用するかもね?

 時間を空間化した途端に、「アキレスと亀」とか「飛んでる矢は止まってる」パラドックスが生じてしまいマスカラ、時間はやはり変化の枠組みとして取らまえるべきなんす。パラドックスつうのは叡智の元。なにしろ「悪魔の証明」もパラドックスでクリアできマスカラ。「在る」と言ふ証明は、一つでもいいから、或るものが在ることを示せればイイ。しかし無いことの証明は不可能?いくら無いと主張しても、無いものはナイ。それを数学的に示すのが「在ると仮定してそれが矛盾を生じたら、無いことが証明される」のですね。つまり矛盾は数学的な構造物の鎹、螺子、大黒柱なんすよ。

 理性とは矛盾を認識でける意識の構造であーる! もう酔っぱらっちゃったら矛盾も不条理も無意識も無いもんネー!!!ダハッ♪