11月16日(木)冥途への土産とは

 快晴、夕方少し雲出る。9℃〜16℃、37%。風邪が喉から鼻にきた。げほげほからずるずる、はっくしょん!





 フィクションとは:

 作りごと(虚構)のことなのか?しかし、この世の真実というのは概ね隠されていますから、何がホントで何がフィクションかを判定することは、実は極めて難しいことなんすね。実際、過去の事実を系統的に纏めたとする歴史でも、時々新しい発見で覆ったりするし、時代、時代の政権によっても変わったりするしね?

 唯心論で言えば、この世界の事共はすべて心が作り出したフィクションである、とも言えます(心を脳と置き換えても良い)。でもこれは程度問題で、同じフィクションといっても、リアリティの有るものと、無いものがあるのは確かである。物語でもリアリティのあるものを好む人と、荒唐無稽なもの(SFなど)を好む人に分かれます。我々は、必ずしもフィクションだからと言って、ある物語を頭からバカにするものではありません。出来のいい物語は、我々に感動を与え、人生を豊かにしてくれます。

 と言うことは、宗教も頭からバカにしないで、そのようなフィクションを楽しむ余裕は必要でしょう。小説がココロを豊かにしてくれるように、宗教も人生を充実させてくれるかも知れません。すかす宗教の切ないところは、これがプラセボ効果に似てるところなんすよ。心から信じなければ、何の効果もありません。ショボーン

 でもあの世つうところがあって、そこでは既に亡くなった人や、これからそこに来る人に、再会でけるんだ♪と思えば、生きてるこの世界にも、かなーり広々とした自由な空気が満ちてくるんだ。ごく狭い科学的知見に拘って、こせこせした生き方をするより、なんぼかすんばらしいことか!不可知論つうのは、不可知なもの(神、無限、あの世などなど)を否定することでも、肯定することでもないんですから。



 でも、宗教の副作用は、信じる切ることの良い面の反動である、とも言えます。頑なに信じちゃうから、他の宗教を排斥したりしますし、宗教を信じない人をバカにしたりします。時には信じることを利用して、詐欺まがいのことも行われます。それはカルトばかりではなく、昔からどの宗教でも、すぐにお金に結びついて堕落したりしやすいですから。それで、どんな宗教でも必ず改革者が出てきて、お金から一瞬離れたように見えて、また繰り返すと。これも人間精神の普遍性なり。どーも、どもども。