5月26日(木)「哲学」、「形而上学」って言葉も、明治の頃に日本で作られましたんや。

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 目的と手段とは:

 目的を達成するために手段があると一般的には理解されますが、実は手段はすぐに目的に転化されやすいのですぅ。例えば人生を豊かに暮らすためにはお金が必要であるとして、色々と収入の増加手段を画策します。するといつの間にかお金をもっと多く稼ぐことが目的化してしまうのですね。そのため寝食、自分の趣味や私生活、家族を犠牲にして生活も荒れてくると。

 ま、こういう経時的なものでなくても、目的・手段連鎖は上位の手段は下位の目的であるという構造を本質的に持っているのですぅ。「でも、究極の目的ってのはあるでしょ?」という疑問に答える術はありまへん。あると言えばあるし、無いと言えば無いからです。人間に限っていえば、「よりよい人生を送りたい」というのが、それに近いのかもしれません。

 学問で言えば、哲学や文学、藝術などが人生の目的追求に近いのかも知れない。工学や法律、経済などは手段に近い方ですね。理学は工学の指針になる点では手段ですが、自然の謎を探究する点では目的に近いのかもしれません。近年、文科省が打ち出した実学優先で文系を劣等視する方針は、この見地から学問の後先を逆転する無学の発想と言えましょう。


 私見では、哲学が見出した最高の概念は「無知の知」ではないでしょうか?二千年以上経った現在でも、これは少しも色あせて見えません。我々は近代科学文明でイロエロな知識を蓄え、産業革命を経て地上に覇を唱えましたが、それでも尚且つ人類が知らないことの方が膨大であって、「賢しらに全てを分かったような顔をして威張るのは、愚の骨頂である!」という認識ですね。

 と言うことで、学問のなかの学問@哲学には正解は無いのです。それ故、永続できるという特性を持ち得ます。解が全て分かっちゃったら、その学問はそこでお終いですが、哲学は「問いを発する学問」なのですから。如何に優れた問いを発したか!が哲学者の評価基準なのれすぅ。ジャン






 追記:ふと思たんですが、哲学も手段になり得ると。それは人生をより良く生きる為に、箔を付け、飯の種にして、尊敬される手段です。斯く言う見地からは、何処にも属さず、本も論文も書かず、ただひたすら自分がこの世界の不思議さを把握するために、問いを発し続けている人こそ、真の哲学者といえるのではないでしょうか?わたしはそのような人物を一人だけ知っております。端から見てるととても険しい道に見えますが、本人はとても楽しそうでやんすよ♪ホムホム