3月13日(金)あくまで下流志向だぜよ。

 晴れ。2℃〜13℃、36%。 久しぶりにプールに行く。常連の外人が居なくなってた。



 
 下流が上流を作る例:天才

 おさるの顔を人間はほとんど区別できない。しかし人間はヒトの顔ならほとんど区別ができます。ホントはおサルの顔よりかヒトの顔の方がバラツキが少ないと言われてるんですが。表面的なことばかりではなく、イロエロな才能も実は人間に見えるほどの差は無いのかもしれませんね。でもこれを人間同士で比較し合っているから、ものすごく差があるように見えてしまうと。

 そんな前提の中でも、主観的に見れば明らかに能力の差があると認められることは多いです。長距離や短距離の走る能力、記憶力、論理的能力、音楽の才能、絵画の才能、数学の才能、ファッションセンス、ダンスの上手さ、どんなに頑張ってもこいつには敵わないってことは多々あります。しかしその評価軸は何百という多岐に渡っていて、その大部分は実にくだらない(失礼)ところが取り柄になってるんすよ。けん玉が上手いとか、ゲームの達人とか。ぷ

 では天才とガイキチの境目は何かっ?天才とかガイキチってのは本人ではなくて、むしろ下流側が決めているのではないかと?その特異な能力を喜ぶ人が多ければ天才となり、その特殊な能力を疎む人が多ければガイキチになると。仮に隠れた数学の能力や文学の才能が、狩猟民の中にあったとしても、単なる変人に見られるだけです。足も速くないし弓矢も上手くなくて、理屈ばっかし捏ねてるからね。つうことで天才もガイキチも、もちろん宇宙人も世間が作ると。

 でも突出して(1億人に1人くらい?)何かの能力があるのは確かですが、両親の片方が天才でも子供の能力は半減しちまいます。これは1億人に一人という能力には厳しい制約かも。逆に両親が凡才でも、何億分の1の確率である才能に特化した才能は開花しうるでしょうね。

 でもあくまで天才かどーかを決めるのは社会であって本人ではありません。社会がその時期にそこでそれを必要としたかどーかで、天才かガイキチかが決まるんですぅ。下流が最終的に天才を決めているのはガチだと思う由縁だすぅ。ドモドモ