9月27日(土)音には奥行きが無いと仰る御仁がおりますがっ

 曇りときどき晴れ、または晴れときどき曇り。18℃〜22℃、58%。Tシャツー短パンでずてぃんしゃをブッ飛ばしてたら、ちと涼し杉。






 感覚とは:音波

 もともと感覚とは受容したときは、すでに過去のもので記憶の中にしかないのだっ!つう意見がある。これは一理アール。すべての感覚は発生時とは微妙にズレて認識されるんすね。すかす視覚と聴覚とはかなりの違いが見受けれまする。絵画や彫刻などは、多少時間がズレても、常に現前しますが、音楽は生まれては消える一瞬の生滅の狭間に存す。即ち、大げさに言へば記憶の中にしか存在でけない芸術なんす(視覚的に言へば、花火とおんなじかな?)。

 音による表現つうのは、音楽にしろ音声にしろ感情に訴えるところが大きいとゆわれています。虫とか小鳥では求愛の手段として極めて重要です。でも、絶対音感を始め、老人の高音域不可聴など、極めて個人差の大きな感覚でもあります。一方、議論や演説など公共性を担保する、コミュニケーションの要でもあります。この音の個物性と公共性の狭間に言の葉つうのがあるんすよ。ちと小難しく言ふとですねぇ♪

 そいで、言葉の芸術と言へば詩歌だすな。これはリズムと押韻?リズムは小鳥の例でも分かるけど、なんで押韻が必要なんだ?こりは表現に制約を掛けて、その苦吟の中から本音を引き出す高等技ではアルマイト。ゲームにしろスポーツにしろ人生にしろ、厳しき制約無きところ自由な発想なーしっ!ホンマの自由気ままは、ダレちまうんすね。ヒアイ

 言の葉の哲学的側面で言へば、大きく分けて二つの見解がありまおす。言葉こそ実在である!つう雄叫びと、言葉なんてものは分別して付けた記号に杉なーい!つう論理的だが片腹痛い見解。前者は実在論といひ、言霊や言忌みで言葉が現実(リアル?)を先導するというもの。西洋の「光あれ!」と創造神がゆったら光があった、もおんなじかな?一方、後者は言葉なんて実際のものを分けて区別して、後から付けた記号に過ぎないのだっ!つう唯名論だすな。これは金剛教などの見解にも通じます。そして、現代哲学はソシュールなどをオリジンとして、唯名論から構造主義に至りますのだ。

 言語と音声を契機として、意味論や時間論にまで発展し、現代哲学の中核を成しておりますんや。何しろ哲学つうのは言語なくしては成立しませんからねィ。すかす、文字と音声との間にも大きな(つうよりも、超えられない)壁があってですねぇ、般若心経などの「お経」は声に出してこそ、ご利益があるんだぜィ!そこんとこ、ヨロスクっ!








 カタストロフィックな現象は、確率的な出鱈目は言へるけど、予測は不可能だ!っちゅうTパンティいやT大のガイジン教授がいたな。一理蟻! 世の中、一寸先は闇なんすYO。でも、曲がり角の先には、最も良きものが在るとイヒナ、イヒナ♪