10月22日(土)哲学の散歩道

 曇り。15℃〜18℃、74%。北よりの風、肌寒き日なり。




 猿獲る:Sartreの吐き気

 彼は全てのことは言葉にできると言う信念を持っていたとか。これは西欧人の限界。LOGOSというのは論理であり、理性であり、そして何より言葉なんですぅ。「光あれ!」という言葉から、全ての被造物を創ったとされる旧約聖書の神が、そのことを如実に示しています。言葉が無ければ何も存在しないというのは唯名論です。でも、仏教は、どっちかっつうと言葉よりか実践に重きを置いて、修行、経験、体験を重視してますね。これが西洋と東洋の根本的な違いかも。すかす、言葉は千里を走るけど、修行は師弟相伝だから広がりに欠けます。猿獲るもこの辺は良く理解していて、アンガージュマンつう社会参加に重きを置いたと。そして理に走りがちな言葉を、普遍的具体で地に付けました。即ち、個別具体の中にこそ、普遍性(一般性)が宿っているのであるとした。漱石ドストエフスキーの小説がある特定の人物を造形しても、そこにはある普遍的な物語があると例示でけるんだい。




 読書:アーサー・C・クラーク

 今日は河原のベンチで”Childhood's End"「幼年期の終わり」を読んだ。セイガクの頃に読んだのとは、また別の感慨を抱いた。先の長さの問題かも知れんなぁ。ショボーン 人類の進化の先には、果たして何があるのか。そして現生人類は一体いつまで存続でけるのか?そこにあるのはテクノロジーのみの世界では無いはずだっ!科学技術の発展を見れば、早晩指数関数的に暴発するのは火を見るより明らかですぅ。その辺を考える余裕のない現代。ショボショボーン