2月24日(日)霞始靆(かすみはじめてたなびく)、黄砂もたなびくんかな?

玉虫備忘録:

 霞晴れときどき薄曇り。2℃~14℃、34%。花粉やや多い。

 ステロイド系目薬が効いてきた。でも1日2回しか点せないんだ。世は未だ寒さ残るとはいえ、木々の芽も膨らみ春の準備は着々と進んでいる気配。桜の開花も少し早まる見通し。さて、今年のお花見は何処でやろうかな♪去年は遠出したから今年は近場でやろうかな♪

 

哲学ってのは:

 さて哲学は、芸術などとちがって絵画や彫刻、音楽などでは表現でけないから、言葉で考えを紡ぐしかねーんですぅ。つうことで、言葉と物(世界?)との包含関係が重要になるんだす。言葉と世界とはおんなじか?はたまた世界があってそれを言葉で表現するのか?あいや待たれい、言葉が先でそれがないと世界は無い(唯名論?)とかイロエロな考え方がありまふ。

 そんで分析哲学なんつう言葉の限界を言葉で記述しようってなのも生まれました。元々はまず世界があって、それを分節化し差異を認識して記号に対応させるっつうのが王道でした。すかす構造主義ってのは、言葉と世界を切断し、それぞれにおいて差異を認識の基本とする構造を模索しました。

 実存(=現実存在)を存在の根本に置き、人間を中心に置いた自由の追求という実存主義は、システムつうかストラクチャーが個人よりか基本だろうつう構造主義に置き換えられました。ま、こりは可換群の変換構造によって対称性を暴き出したガロア群論に端を発したといってもよかんべー♪構造主体は「私=主観」の解体ですただ。

 すかす、すべてを構造にゆだねるのもなんだかね?つう揺り戻しもあって、ポスト構造主義では、またじわじわと人間への関心が戻ってきますたよっと。すなわち構造の中での「私」つうのは何かと?

 つうように現代哲学を概観すると、哲学つうのは本質的に前者を否定しつつ発展するもんではないのんかと?いやいや前者を否定しなければホントに新しいのは生まれへんから、これは科学も社会も政治経済もみんなおんなじなんですぅ。そこんとこヨロピク!ドンモドモドモ