9月25日(火)ま、どちでもエエことなんすが、こだわってまふ。

 終日雨、時に強し。19℃〜25℃、83%。涼しいのに、夕方ゴロゴロと雷が聞こえた。72候も時にズレズレ。



 民主主義とは:

 ミンス主義の胆は多数決、すなわち「最大多数の最大幸福」とかいうのを金科玉条にしている輩は多いですぅ。特にわが国では、ミンス主義の歴史の浅さも影響して、政治家でさえ「多数決、これしかなーい!」という信奉者が多いですぅ。すかすホントの民主主義の本分は、実は徹底的な議論なんすよ。これなくしては、如何なる制度も結局は独裁におちいりまふ。メジャーがマイナーを圧迫する単なる多数決におちいれば、少数民族や社会の少数者、弱者、差別されてる人などはゴミもおんなじ。どのような横暴も通ってしまいます。建前だけを信じてしまうと、トンデモナイことが起きてしまうんすねぇ。どんもどもども。





 発明(創作)か発見か?

 この話題は、時につれ何時も考えているイッシューですが、けふは少し進展がありました。

 数学は発明(創作)か発見か?つう課題に関してですぅ。わだすの今までの見解は、「数学とは発見であーる!」つうことですた。即ち、もともと在った真実を発見するのが数学なのであーる!つうことでやんすよ。

 すかす建築なんかを例にとると、石を積み上げた壮大なアーキテクチャーは、発見ではなくして創造であろうよ、つう言辞に逆らう術はなし。石から像を彫り出す彫刻にも、両方の意見はありますが、石を積み上げる構造物は、やはし創造の方に軍配が上がるんでわ?

 既に在ったものを発見するのと、今まで無かったものを創作(発明)するのには、一見排他的で両立しないように思われまするが、こりらは混在する概念ではアルマイト

 
 乃ち、既に在るんだけど物凄く複雑な在り方で、それを発見するんは、創作に近い努力が必要になると。前に言及したように、全ての文学作品は原稿用紙を埋める文字の、全ての組み合わせを考えれば、予め存在していたと言える。すかす、膨大な雑文の中からそれを発見するのは、既に人知を超えている。乃ち名文学は創作であると。

 同じようなことが数学にも言えて、ピタゴラス三平方の定理などは発見であって、フェルマーの最終定理に関するワイルズの証明などは創作の部類ではないのんか?まさにはっきりと申し上げて、石から掘り出すか、石を積み上げるかの違いなんですぅ。でも、証明を終えて既知になった定理は、神さまが作った真実の発見となってしまいます。


 こりはすべて人間の認識構造である、「過去は必然、未来は偶然」つう大原則に沿うものなんであーる。そして、ナカノヒトがナカノコウゾウを調べようとするときの、必然的に自己ループな構造が、これらの認識に関わっているんだすぅ。ドモドモ