9月2日(火)禾乃登(穀物が実り始めるころ)

 青い空に白い雲ぷかぷかの夏晴れ。20℃〜29℃、49%。気温は上がったが清々しい天気。夕方、高いすじ雲に白い半月懸かる。30分泳いだだけで、もうバテバテな夏バテなわだす。9月はちゅかれが出る頃ですから、ご注意を!





 不可知論:

 日常生活で眼前に展開する現実を疑うものはほとんどいません。五感で実感できるものが全てで、それだけがリアルだと認識しているからです。五感によって経験したものだけが全てなのか?感官のあやふさがこのような疑問を想起しました。錯視、錯覚などの脳が作り出したあやふさだけではなく、人間の五感以外の感覚器を持つ動物が知られてきました。超音波や紫外線、電界や地磁気、電波や赤外線、水の振動など外界を知覚、認識するためにあらゆる波動が用いられていることがわかってきました。五感に限定された人間の外界認識が極めて制約されたものであることは明らかです。


 経験によって与えられず認識されもしない「物自体」の世界を悟性によって導入できたカントの知性は並外れたものであると言へるです。このような世界観が計測器によって認識される科学的世界観にまで影響を与えるのかどーか?時間や空間すら認識のテンプレートに過ぎないとする見方からすれば、当然計測器などで与えられる客観世界も「物自体」ではありえないと言えるです。わずかに「物自体」が意志の根源として、自由意志の根拠として20世紀の哲学者に残されたのは観念論の置き土産?


 すかす観念が砂上の楼閣ではなかりべくして、その根幹に「物自体」を想定したのは流石にカントの誠実さかな?でも、神様とか宇宙の果てとかの形而上学的概念はいくら考えても切りがないから止めましょうと現実的なことゆってるのもカント。他人も自分も騙さないパンクチュアルな男ではアルマイト。わだす最近、義道ちゃんの「カント塾」に入門しようかな?って考えてますんや。ダハハ





 追記:しかし、時間や空間が単なる認識形式であるって、どーして考え付いたんだろ?現に有るし、現に感じれるし、ふつう実在だと思うでしょ?時空が単なるテンプレートだとすれば、違う認識の仕方ってのもあるんだらうか?しかしそれも不可知なんだろうな。ハア〜