5月21日(金)認識論をまとめてたら、喝(かあ〜っ)!


 こんにちは。晴れ。気温は30℃近く上がったが昨日程
ムシムシしていない。湿度が低い所為かな?不快指数が低い、
と言うよりも爽快指数が高いのかな?日本人は用語が深い
(不快)。





 ちょと纏めとこ:哲学用語


哲学の中心課題は存在論と認識論ですが、存在は結局絶対者
に行っちゃうから、神様が全盛の中世は認識論が盛んでした。
最も素朴で一見常識に合うのがナイーブな模写説。世界は
在るがままに感覚で模写され意識に反映されるのであーる。
まことに最もで納得しやすい。




しかし、認識というのを掘り下げるとそんなに単純ではない。
外界にある物がそのまんま意識に反映されるにしては、錯視
錯覚や意識状態によって世界の見え方が違って見える。また
他者と自己とは見方が一致しているとは限らない。







そこで、自らの認識作用を徹底的に分析して認識の構成説を
打ち立てたのがカントであーる。これにはちと自己の思考
過程を分析した意識作用が必要ですが、「我々の認識という
のは、外界をあるがままに受け取っているのではなくって、
アプリオリ(先験的)な判断の形式(つまり認識の枠組み)
に当てはめて世界を理解しておるのだよ。すなわち世界を
自分の中で再構成しているのだあ!」と宣言した。









この認識のテンプレートは二種類あって、まず外界を受け取る
テンプレは時間空間という枠組み。これに当てはまらない
もの(神やお化けや幽霊など)はまず認識できません。
一応時間空間の感覚が正常なまっとうなヒトが五感で受け
入れた認識を、さらに意識の思考形式ついうテンプレで
分類するのが悟性ですぅ。これは上下や数量などの12の
概念分類カテゴリーで仕分け致します。これが狂うと認知
症。









しかし、このカントの認識論@構成説でも異カントもし難い
のが二つあーる。即ち、この枠組みに入る以前の物自体Xと
入りきれない超常的な神などの絶対者は不可知であーる。
また、世界を枠に嵌めて認識しようと試みる認識主体(我)
はぜってー認識不可能という不可知論が巻き起こるぅ。








この後者は元々の認識作用自体に含まれる矛盾にして、論理
的には克服不可能と見られておりますた。即ち、認識しようと
している自己を認識しようとした途端に、その自己は認識
される客体としての自己に変じて、認識作用の主体である自己
は決して認識できないと言う、何処までいってもルーピイな
関係。











これは認識を認識主体と客体に分けたデカルト以来の2元論
に起因するものにして、自分の意識の外に客体を置こうとす
る指向そのものが間違っておーる!と叫んだのがゲゲゲの
幾多郎先生ですぅ。すなわち認識とは「自己の内に自己を映す
行為にほかならないのであーる。」









がっはっは。こうすりゃ主体も客体も無かんべえ。とわ思え
ども、その映す場所というのが絶対無とは如何なるところで
ありませう?自己から自分性を全部剥がしていったら如何なる
彼岸に達するのでせうか???









それが真の自己???










そんなキモスるけど、自分性を取り除いたら自己とわ
何ぞや〜! 喝!