5月13日(木)うっすらと分かるようで、すぐに霧のなかへ


 こんにちは。久しぶりに爽やかな五月晴れ。植物たちはぐん
ぐん伸びてますぅ。たそがれ時、プチ薔薇園を通りかかったら
色んな香りが漂ってきて目が回った。そう、今はバラの季節。













”A man has a choice. That's where he's different from an animal.”

ってのは「東の(レ点)エデン」で堅物のとっつあんが聖書を
引用して不良のジェームスディーンを諭してたシーンを思い
出しますねえ。「人間はえらべるんだよ。それが動物とちゃう
とこやろ。(根っからのワルなんかいないのだよ。)」













「えらぶ」で人生を割り切るのも一つの人生観。「えらんだ」
背後には百億の「えらばれ」なかった人生の可能性がある。
それを捨てますか?ハイ、捨てました。
つまり、「えらぶ」って「分ける」と同じように二元論で世界
を分割することなのですね。
見捨てられた千億の「えらばれなかった」ものにカンパーイ!

エリート?選良?選ばれしものに幸あれ!






この項、BBの詩的なエントリに触発(インスパイアド)されただよ。















 最近またゲゲゲの幾多郎さんを読み返してんだけど、悲惨な
彼の生涯を埋め尽くす探究心は「真の自分とは何なのか?」
に尽きますね。その1.実体の否定:精神の働きや作用は確か
にあるけど、それを認識している主体ってのはあるとは限らな
い。いや無いかも。2.主体客体の未分:純粋経験という没頭
状態が真の実在であーる。即ち、登山家が岸壁を登る時、画家
が入魂の製作中、音楽家が演奏に没入時などが真の実在で主客
未分の状態であーる。3.個体と普遍の未分不二:即ち、一即
多、多即一。要素は全体に等しく、全体はまた要素に他ならず。
私の今日の意識がノンREM睡眠(夢も見ない全くの無意識状態)の
後明朝またわたしの意識として連続するのなら、などして我の
意識が汝の意識に結びつかざるべけんや!とか。















 で、この最後の3番目がどーしても理解不能なんぢゃわ。
漏れは漏れ、おめーはおめーって常識のなかで、なんで漏れと
全体が一緒なんだよ? 解説に寄れば、「自己を内側に深化し
ていけば全ての利己的な自己意識が取り払われ真の自己、即ち
絶対無にたどり着く。各個体が皆この真の自己に至れば、即ち
個即普遍(全体)になるのぢゃよ。渇!」だと。














 この辺が何べん読んでも理解不能なんだわ。「修行が足りん!
」とかゆわれても、哲学は宗教ぢゃナインですから、概念(言
葉)で分かるように説明でけなきゃ無いも同然。この辺が西田
哲学の限界なのれせうか? だいたい「純粋経験」ってのも
主客身分の体験の話しなのに、それを言葉で説明しようって事
が既に矛盾してますのだ。自分の主体的な経験を言葉で説明し
ようとした瞬間にその経験は主体ぢゃなくって、説明する対象
即ち客体に変じる矛盾。これはなかなか克服不可能にして絶対
矛盾的自己欺瞞に陥りマース。














 なんでも見ることは出来るけど、機器を使わずして自分の
網膜や水晶体を認識することができるのかっ?つうことだす。
それでこの機器つうののアナロジーが神様仏様ということだ
すねえ。理性の限界。カントの不可知論。でも、この辺の
西洋の知識に挑戦したとこが幾多郎の偉いところかも。
客観化して対象化したら埒がアカンから、自己のうちに自己
を見る。とか、自己の内に自己を映す、として内在化を試み
る、冒険といへるでしょうか。















 ふと、フラクタルなんてのを思い出す。同型がどんどん
細部に及んでそこを拡大するとまた同じ図形が現れる。永遠
に続く写像。相対した鏡のはざま。自己意識を分解すれば
永遠の入れ子状態。もし全能のしとがいて、今ここで東京の
地図を描いたら、その中の地図には自分を含めた地図の詳細
があり、その地図の中にはまた地図を書いたしととその詳細
がある。永遠の入れ子状態。無限の定義@デデキント















 この間福岡@食い倒れ太郎氏の対談を読んでたら、アリマキ
というアブラムシの生態で、この虫は胡瓜なんかに着くのですが
天道虫にガツガツ食われてしまう、しかしアリンコがその尻の
蜜を吸う替わりにアリマキを守ってやるんだとか。そのアリマキが
入れ子状態だとか。すなわちアリマキの腹の中には既に成体の
体形を為したアリマキの子供がいて、そのアリマキの子供の中には
またアリマキの体型を為した孫がいると。生命の入れ子鏡像を
そのまんま体現してるんだと。















 自己意識も、斯くやあーる。永遠に映しあう入れ子鏡像。
すなわち、もつれ合って底の底、自己の本質に至りて無に
変ずると。「絶対無」の自覚から、「絶対矛盾的自己同一」
へと至る険しい道のりは心の登山家ぢゃなけりゃ辿り着け
ないのでしょうね。漏れ?












 ムリムリ