10月13日(水)69日目の奇跡

 こんにちは。朝のうち小雨のち雲の多い晴れ。依然として
今日も夏日。












 チリの鉱山事故の救出始まる。最初の人が出てきたときは
ジーンとしましたね。世界中の技術を集めて最短期間で穴を
掘ったそうですが、暗闇で33人が統率を崩さなかったのは偉
い!地球の裏側の人に一喜一憂し涙を流す人類と、一発で数
十万人を虐殺する人類はいったい何処が違うのでせうか?
ヴェンちゃんおせーておくれ?ダルフールとか。











 感受性と言ってしまえばそれまでですが、人の痛みを自己
の事としてホントに感じれるのかのミラーニューロンの強弱と
いうごく表面的な解釈はでけますが、それじゃ国家のため
公共のためなら何で酷いことが出来るんぢゃあ!自分のため
にそういう事をやったら極悪人で、公(おおやけ)のため国
の為にやるんなら英雄かよ。ワカラン












 この間、幾多郎さんの墓前で考えたんだけど、この方は
人のこころは実体ではなくて、たんなる作用や働きであーる
と看破した。だから幾らでも拡げられるし、逆に狭く閉じこ
もって自分のことしか考えないことも出来る。地球の裏側の
人々に涙を流すのも、我が侭に贅沢言って喚き散らすのも、
同じ心の作用です。欲に塗れた偽我をそぎ落として自分の
真の本質(絶対無?)に内部超越するのは、狭く閉じこも
るのではなくって、こころを広く広く拡大していくことでは
ないのんか?個々の人のこころが絶対無に辿り着けたなら、
その時にはもう我も汝も無い根源的な統一力に融合できる
のかなあ?(五木寛之大河の一滴みたいだな。)









 度重なる身内の不幸で心身がずたずたになった中、この
ように前向きな思想に辿り着いた幾多郎さんに涙。人の
実体が作用なら、幾らでも変れるよね。今からでも。



















追記:私とは心とは自己とわ*1。べたっと現在の認識を書いてみた。ども

*1: 私という実体は在るのか、無いのか?長い間哲学的な論争がありました。 ベルクソンやW.ジェームズは私とは「意識の流れ」であり、その「純粋持続」である、と言へり。カントは「事物には規範的な原理と存在原理がある。」として、心があるとすれば心的作用もスンナリと説明できる(原因ー結果の規範)が、それが心が在るとの存在証明にはならない。心の存在を客観的には言えないのだ、と主張した。  幾多郎先生は、「自分自身で、自己とは何か?を真摯に考察する事が大切だ。」と言へり。そして心身両面に渡り「私」の実在を信じさせているのもは何かと。 例えば、こころ(意識)は実体があるのか?意識現象は一瞬一瞬変化しているし、無意識によって途絶えもする。五感で何かを感じそれを実体だと思っているが外界は網膜という内部が捕らえた虚像かもしれない。変化しているものの奥には必ず変化していない物がある、というのは幻想かもしれない。何かを感じ、意識する作用、現象は確かにある。が、そうだからと言って、その原因(本体)があると思うのは因果律を信奉する推理に杉ないのではないのか?と言うのがヒュームの破壊的な経験論です。  一方、身体が「私」の実在を信じさせる原因ではないのか?という疑問もある。身体が内と外(私と他者)を区別している元凶であるという考えもあります。しかし、脳神経科学的に考えれば、そもそも外界は網膜や内耳、あるいは舌や臭球、触覚などで捉えられた内界である。みんな内側なのです。逆に道具は身体(内側)の延長として脳は捉えているという実験は多数あります。内と外との境界は身体によってもはっきりしない訳です。  このように考えると自己(こころ)というのは必ずしも実体ではなく、たんなる作用、働き、現象でも良いわけですね。  では、「私」という現象はどのように構成されているのか?それは海馬を経由した記憶を中心に意識の流れを統一し、感覚し、意思し、推理し、情動する働きではないでしょうか。単純化すれば、記憶を入れ替えたら「私」では無くなるのかも知れない。現に、多重人格者はプリテンドではなく実際の脳内現象として厳前するのだという研究もあります。  カントや西田の深い内省のみによる研究が、最新の脳神経科学の成果に合致するということは少なからぬ驚きではあります。遺伝学的にいえば、個々の存在は人類や民族の共通遺伝子によって通低しているし、社会的な遺伝子ミーム(文化?言語?)を共有化してもいます。このことは西田の言う「多即一、一即多」あるいは「自即他、他即自」を解釈させてくれます。  即ち、一(普遍的な統一力、例えば遺伝子とか)の個別的な現れが多(個々人という要素)であり、また個々人の底には共通した普遍性(人類としての遺伝子)があるとか。また、そういう発生学的な見地に立てば、私もあなたも寄って立つ基盤(人類と言う遺伝子)はおんなじではないかと。これは生物全体にも拡張できる原理です。全ての生き物は依存し合い共生して地球環境の元で暮らしているのですから、自分の狭い世界に全てを取り込もうとしたら、カタストロフィーが来ると。こういう考え方もあるんです。  「自己の内(その奥底)に(真の)自己を見る。」から「自己の内に他(汝)を見る。」に至った精神履歴を鑑みれば、人生の悲哀が哲学の源だったとの感慨も頷けると言えるでしょう。  只今の自己認識を記して、半里塚とするなり。またいつか更新するかも。 「へぇ〜、こう言う見方もあるんだ!」と日々見解を更新して行ければ幸いなり。福岡伸一ハカセによれば、我らの体内構成分子は日々流れ去り、一つとして留まりたることなし。川面に浮ぶ泡沫(うたかた)はかつ結び、かつ消え去り、一つとして留まりたるもの無し。ああ、生命とはかくの如きものなりしか!流れに出来た渦巻きの様に一瞬存在して、また消えていくが流れは千年の時を継続する。生命とは、これをとても複雑化したプロセスであると誰かがゆっても、論理的には誰も否定でけないれせうね。プっ!