4月15日(木) 自即他、覚書


 こんにちは。終日寒雨しとしと降ったり止んだり。吐く息
も白い冬日。変則気候はいつまで続くんぢゃあああ!







暗黙知。集団的無意識。共通無意識。
ほとんど変らないDNA。たとえ感覚は錯覚錯誤があるとしてもヒトの認識機能はほとんど同じと言えるのでは?(推測)。


自分は他(環境)によって作られる。オオカミ少女。
価値観の根源はどこから来るのか?』



つうような下書きが去年の6月から保存されてる。
考察が全然進まないから、一応現時点での認識を残しとこ。






これは幾多郎理解の三つの大切のうちの一つ。
1.わたしという実体は幻想である。
こころは考えたり記憶したりする作用であって、霊魂のような実体があるわけではない。謂わば経験の集積であり意識の流れ”のようなもの”ではないのか?(脳科学的には脳内ネットワークの作用という見方もでける。が、脳内に限らず身体全体の反応だという意見もある。)

2.個体と普遍は一体である。(多即一、一即多)
部分と全体、要素と集合、自己と世界を分けれないものとして統一的に認識する。

3.主観と客観(内と外)も当然未分である。
すなわち、自己の内に他を見、他の内に自己を見る。






 何しろなんでもかんでも分けないのですね。無分別。分けるとややこしくなるから。幾多郎先生は10年くらいの座禅三昧で不可分の境地を悟ってるからイイけど、哲学は宗教ではナインだから論理的に概念で説明できなけらならんのです。が、彼はそうしている心算でもよんでるおらはチンプンカンプン。






 で理系のこころで理解に勉めたと。


自と他の関係でいえば、脳内にはミラー・ニューロンつうのがあって、他の個体の行動に対して、まるで自身が同じ行動をしているかのように"鏡"のような活動をする。つまり他者の行動を自分の脳内に映して理解しようとするのですぅ。


もともと五感というのも外界を、網膜や蝸牛、味蕾などを通して自己の脳内に取り込んだもので、我らが感じる世界は既に我らが内部にしか存在しないのれす。鏡の様に脳内に取り込んでしまいます。共感もおんなじ。ミラーニューロンを通して他者の行動をも自己のものと感じてしまいますぅ。


ここで小さな経験。二枚の鏡の間に立ったとき自が他を写し、また他が自を写し、無限の連鎖に目が回ったことはありませんか? ミラーニューロンによる他者を自己に映す鏡は人の数だけあるのですから、その映像は目くるめく社会の構造。あっと言う間に自己と他者の分別は崩れる恥ず。




一方、発生学的に観ずれば赤ちゃんの脳内連結(シナプス)は生後スグに最大になり、その後知恵がつく度に減少していきます。これは、「まづ最大、その後いらないとこを削っていく」つう生物戦略に沿ったものです。生まれたときは真っ白け。その後お母さんや家族、教師や社会、文化文明の影響を受けて出来上がっていくのですから、周囲の環境が個体を作るといえるでしょう。また、その個人が集まって社会を構成しているのですから相即性が成り立つのかな?





細胞レベルで見ても自他を区別する免役性は、まづ全てを攻撃する100万通り以上の免役細胞が胎児の頃にできます。外部からの異物が存在しない環境では自己を攻撃する免役細胞は自滅してしまい、その結果外部抗体だけに反応する免役機構が残ると。








う〜む、しかし”身体”の問題ってむずかすいな。これが自己と他者を区別する元凶なんですが、棒とかの道具やイメージで簡単に”身体”を延長できちゃうんす。でも、その身体だって神経網によって脳内に転写された外部だって見方もあるしな。ある一派は脳だって入力出力を制御する交換機の一種で、心は身体全体に跨っているのだ!と主張する。現時点で、心脳問題のメカニズムに定説はないのれすから全ては仮説、仮想、幻想ともいえるのかも。嗚呼日暮れて道遠し。









 いずれにしろ自分しか居なかったら、自他の区別で悩むこともなかろうから、関係性のネットワークの中でしか自己定義できないのだけは確かだな。
つうことは自即他、他即自という道筋は薄っすらと見えてきたのかもしれない。半導体の中でマイナス電荷を帯びた電子群の欠損が、プラス電荷の粒子としてふるまう実体として認識されるように、他者の大海の中の欠損が自己であるという空の定義ができるのかな?タハッ











今日のは覚書更新として登録しておきます。