11月21日(木)突如物理主義の魔に囚われるなり

 引き続き快晴。8℃〜16℃。いつの間にか虫の声が聞こえなくなったとおもたら、渡り鳥がわんさか飛来していた。そろそろツカイスリーに上ってみようかと思う、スンズクで飲み杉た夜。月と金星の競演♪




 わたしなんてのは幻想だ:虚ろなり。

 私と言うのは一つの幻想であり物語であるっつう感覚が増々つおくなってきた昨今。私ってどこにいるのん?目の後ろ両耳の間の鼻や舌に近い場所。ってそりゃー感覚器の中心かよ、安易。ちょっと視覚や触覚を操作すれば私は容易に身体から離脱して浮遊しまふ。ゴムの手を机の上に出して、自分の手は机の下にあるとする。そしてゴムの手を串でツンツンすると同時に机の下の手もツンツンしたとする、そこで突然机の上のゴムの手を金づちで打ち壊す。被験者は「ギャーッ!」と悲鳴を上げるそうだ。五感が一致すれば「わたし」なんて何処にでも行っちゃうんすよ。幽体離脱とか。

 更に多重人格なんてもの脳活動パターンを見ればホントにありそうだしね。自分が無意識下でこう思ったら人格はいくらでもでけると。更に更に、意図と行動は必ずしも因果関係にないっつう実験もあるしね。精密な実験によれば意図と行動は同時にパラレルに発信されてるらしいんだ。どこから?ってそれが分かれば苦労は無い。脳内の小さな小人が住んでいる自己中枢ってとこが脳内にあるんじゃないんかな。時には意図が先行し、また行動が先行するときもある。

 脳のてっぺんが損傷された人は、自己が溶け出して水のようになって流れ去る。このときに自己は何処にあるのか?脳のある部所を刺激したら突然手を動かしたいっつう意図が生じた。その隣を刺激したら意図はないのに手が勝手に動いた。すべて脳内の電気現象です。つまりわたしとはわたしを形成すべく脳が活躍した結果の合理化なのではないのんか?っつう疑問がわたしの脳内で発生したというリカーシヴな過程なのでやんすよ。


 でもこれも一介の現象ってことで、実は永遠に結論は出ないのですね。メタの10乗くらいに上がっても絶対に解決できない自己ループ。これに挑むものは将に脳内の勇者ではあるまいかっ!アバター!!!









  ここで思い出すのはキタローちゃんの相即の理。「自即他、他即自」、「一即多、多即一」の合一。自分も他人も、個別も普遍もみなおんなじの精神。これは自己が世界に溶け出した結果ではアルマイト。タハ








 最近かなーり生活圏から遊離している感覚ありとす。これアル中の所為か、はたまた内心に向かう知恵の沈潜したる所為かは分からじ。でも自由意思なんか無かりとすればスッゲー自由を感じるボクがゐると。ムムム