11月22日(金)小雪(冬も進み、北国より雪の便りが聞かれるころ)に原発再考

 引き続き快晴。7℃〜17℃と昼間は暖か。ハーブ類も1年草は種を付けて枯れてきた。
 霞が関方面でアフォな会合。人生の無駄なり。





 無意識のバイアスルック:一つの提言

 ぼくのような思い込み主義者になると、ものごとを率直には受け取りません。すごく整合しているような論理もその裏には必ず思い込みによるバイアスが掛かるからです。同じ事象を見ても人によってその受け取り方は180度ちげーます。しかも双方、その論理も一応肯けるものなんすよ。どないせーっちゅんじゃー!例えばローゼン閣下の「ヒットラーに見習おう!」発言に関して、弁当さんとたつるちゃんの見解は正反対。しかもその理屈は一応論理の許容範囲にある。ドヤ


 つまり論理の前には意図があり、その意図は生まれてから今までに蓄積されてきた経験・学習などの集積の結果から無意識的に造られてんすよ(これが所謂思い込み)。科学的根拠のはっきりしない低線量領域(100ミリシーベルト/年以下)の人体影響について学者の見解が分かれる所以です。無意識的か意識的(これも利害関係があればけっこうありえまふ)かはありますが、データの集め方、提示の仕方まで異なってきます。自分ではけっこう客観的だと思い込んでるところも憐れ。ま、一段上の判断をしたいなら、出来るだけ多くの意見を聞くしかねーんですぅ。

 放射線の影響に関しては安全側に倒すってな国際的合意はありまふが、それでもその解釈を巡って百論百出。例えば余りにもリスク側に倒した(低線量でもリスク有りとして注意を呼びかける)解釈は、妊娠初期の妊婦に恐怖を与え、その堕胎率を増やして生まれ来るべき命をたくさん奪ったと言ふこともありました(これは欧州の例)。逆に余りにも安全側に倒した判断は、将来に渡りリスクを継続させてしまうことになります。


 つまりリスクってのは常に双方向なのれすね。どっちに極端化しても真のリスクは高まると。そもそも我ら生物は必ずしむんだっつう事実を阻却して絶対安全なんかを求めたら、どんなリスク管理も成り立ちまへんがな。ハレハレ

 それでは絶対安全つうものが無いとすれば、安全をどのレベルまで確保したらエエのんか?これも実は個人によってバラつきが大きいんですねィ。すかす仮に一般化してみればですな、そのことによる利益が少なくて、しかも自分でコントロールできない(または見えない)リスクは大きく見え、逆にそのことによる利益が大きくて自発的にコントロールでけるリスクは小さく見えるっつう原理はありそうだす。自動車や喫煙はそれによって何千人も何万人も氏んでても許容されるけど、BSEは許容され難いとか。


 すなわち「安全とは、受け入れがたいリスクがないこと」と定義すれば、原発はその典型になるんでしょうね。ドヤロカ?








 今読み返してて、ふと思いついたことがあるので追記する:

 あまりにも正しくて美しすぐることは注意を要する。なぜなら誰も表だって反論でけないのだから。AKBの交際禁止とか美しい国とか万民平等とか自由とか。青雲の頃はけっこうイイことやってたのに、功成り名を挙げるとバカになっていくってな例は歴史にも現代にもぎょーさんおるでよっ!いつかこの心理の真理を分析してみたいもんだ。ああ