12月29日(水)今年の哲学know活動、暫定まとめ

 こんにちは。相変わらず冬晴れ。もう何日くらい続いてん
だろ。ビル風つおし。びゅーびゅー。公園でおむすび食べな
がら上空を見てたらジェット機が何機も西の空に消えてった。











 黙然上人産経抄を叱る”「さん」をつけろよ デコ助野郎!”

ネットでは「さかなクンさん」が常識だもんね。呼び捨てでけ
るのは陛下だけだす。サー・さかなクンとかさかなクンクン
つう案もありまふ。黙然さん年配かとおもてたが意外と若い鴨。
(ちなみにぼきもさかなクンさんが大好きれすぅ。弟子入りし
ようかしらん?)














 さて、今年は西田幾多郎先生のお墓に詣でたし、幾分かの
心境進展ありしかも。









要諦その1:自己(こころ)とは実体ではない→「無」。
「無」とは何らかの形を持っていないもの、すなわち作用、
働き、力、エネルギーのようなものと理解できる。何かを感じ、
意識するこころの働き、現象はある。しかし働きがあるから、
その働きを為す本体があるという因果論は必ずしも成り立た
ない。その意識現象は一瞬一瞬変化している。そして毎朝
目が覚めた時に昨日の意識と接続しているという、変化し
ているものの奥に変化していないものがあると想定できる。
これを私とか自己とか心とか便宜上呼称する。


 そしてこの意識も利己的にごく狭い範囲から、世界を包み
込むようにひろく拡げていくことができる。この極限を絶対
無と言う。ここへはたどり着けないかもしれない。そこは
我欲を完全に滅却した理想の境地である。しかし目指すこと
は誰でもでけまふ。













要諦その2:あらゆる生き物は孤立しては生きれない関係性
のなかに在る→ 「自即他、他即自」、「一即多、多即一」。
ぼくもきみもこの生活圏ではお互いに個性を主張して言い争
うが、意識が広がった極致(マザーテレサみたいなのかなあ)
では個性が衝突することもないでせう。「自己は健全な発展
を遂げれば、どこまででも拡げていけます。それにつれて、
しやわせとか幸福の観念も変わってきます(自己充足)。」(
アルネ・ネス)  共感の極致なのかな? 


 一(一般性)と多(個別性)の即同に関しては、環境と個人
の相互作用に帰結でけるのかも。要するにお互いが造りあう
(限定しあう)関係。これはまだ実感が湧かない。でも、あら
ゆる生物は環境に依存して、お互いに影響しあってるのは分か
る。生物多様性とか地球環境の重要性に関連しての考察。
















 いじょ、哲学関係のKnow活動の暫定まとめ。これは頭での
理解以上に実感が極めてむずかすいです。わたしの実体が
「無」であるのなら、死んだら意識作用・働きも収束するか
ら何にも無くなるのかなぁ?水面の波紋が収束するように。
これはこれで、穏やかな心境ではありますねぇ。ほわ〜ん♪


「古池や かわず飛び込む 水の音」   ちゃっぽーん

しい〜ん〜〜ン〜〜〜〜〜








ホワホワホワ