イノベーションな社会とその敵

 雲の多い晴れ。14℃から22℃と涼しめ。とは言へ緑勢ますます盛んなり。ゴーヤ―の苗を買ってきた。






 ミス、失敗、誤差:

 社会の寛容はイノベーションの尺度であーる。失敗を許容できない社会は、これまでに無いような技術革新など夢のまた夢。なぜなら全てのイノベーションは失敗から始まるからであーる。

 まず企業レベルで言っても、他者が追随でけないようなノウハウはすべて失敗の集積から来てるんすね。ちょっとした思い付きのアイデアなどはすぐに競合他社に追いつかれてしまいます。そのアイデアを実現する過程で集積された膨大な失敗の累積が参入障壁になるんだす。例えば、半導体産業はその歩留り(良品の取れる率)は細かい失敗の集積だと言われてますた。如何にしてそのプロセスからホコリの原因を取り除くかは膨大な失敗の分析から始まったのれすぅ。失敗はダメージではなくって、成功への道しるべだったのですぅ。

 もっと大きなバイオロジカルな進化のケースを概観するに、進化そのものもDNAのコピペ・ミスから始まったのれすね。もしミスが起きなけりゃ進化と言うのも有り得ず、我ら生命は永遠に単細胞の原核細菌に留まっていたでせう。ミスが起きてその集積の中から適応度が選別されると。まずはミスから変わると。

 そして人間の意識もミスから始まったと言う説もありますね?あるべき姿と実際の行動の誤差を修正するためのフィードバックから発生し、その誤差を記憶してフィードフォワード(あるべき姿)に制御するというのが記憶と意識の機能的な定義だとか。膨大なトライ&エラーの集積が無意識のスキルアップをもたらすと。逆に意識して運動するとぎごちなくなるというのは、この理論の証左でありまーふ。これはスポーツばかしではなく絵画、音楽などの芸術や語学から囲碁、将棋などあらゆるスキルに共通している制御機序なのれありまふ。

 
 成功した組織も時と共に定常化をよしとする官僚化が始まり、ミスを咎めるお役所仕事がメインになりまふ。混乱した社会も時と共に安定化してくるとミスや失敗またはワルモノを咎めるようになりまふ。こうなるとチャレンジする精神よりも、ミスを犯さない保身が価値観になりマスメディアを含めて社会全体が正義の先棒担ぎになってしまうんすね。皆が人の失敗や悪い所を目をギラギラさせながら探しあう社会で挑戦的なイノヴェーションって成立するのでしょうか?まことに疑問に存じます。




 とわ言え、わだすの大好きな伝統工芸や伝統芸能、老舗の食べ物などはイノベーションではなくして、如何に長い間そのオリジンを引き継ぐかが鍵になるので、文化自体も裏腹なのれすねィ。イノヴェーション社会と言っても富の格差、知識の格差、文化の格差ってのは膨大で、「谷深ければ山高し」てなところもありまふから、何ごとも偏らない方が無難ですぅ。




 って、無難って何じゃいっ!イノベーションを語ってたんじゃないんかい!・・・つうような支離滅裂で今日の所はカンベンしてくんろ。ドモドモ

 




 ちょっつ日和見的に修正意見を上げとこ:

 専門家の誤判断は単なるミスじゃ済まされないっつうのは、その判断が生命に関わるときですねィ。医者の致命的な誤診が裁判で取沙汰される所以ですぅ。その為に国家は厳しい国家試験を課してるんですが、なにしろ人間のやることですからミスは付きもの。とか言ってると弁護士の判断ミスは咎められんのか?これら専門家のミスは利益誘導などの意図的なものでなければ咎められんつうのが定説ではなかろうか。あんまし咎めすぎると成り手が無くなっちゃうからねぇ。でもミスがそのまま放置ってことではナインれすぅ。そこんとこ夜露死苦