1月7日(火)わたしとは何か?

 冬晴れ。2℃〜9℃。引き続きさぶいなり。



 「永遠のゼロ」を見てきた。ええいいがだった。これは考えさせる。







 「自即他、他即自」:一つの解釈

 自我が強くなりすぎると「おれがおれが・・」になって強く自己を主張し過ぎ、他人から孤立(自立自尊?)しがちになります。動く生物たる動物は自己の位置を確定し周囲を認識する手段として「わたし」という作用を作り上げました。しかし、この「わたし」が強く前に出過ぎて慾だらけになると種全体としての存続の妨げになります。ここに掲題の自他一体化の思想が出てきたのです。もちろん相即の理は、即非も含みますからレベルによっては自他の区別が必要になります。

 ここでこの理を説明するアナロジーとして「岩礁の比喩」というものがあります。例えば夫婦岩のような岩礁は大きさも形も位置も異なる別の岩礁として認識されます。あるとき大潮で波が引くとこれら二つの岩の根元まで海面が下がり、一つの大きな岩礁になってしまいます。つまり通常の海面(普段の生活意識)では二つの異なる存在が、海面がぐっと(我欲がそぎ落とされた自覚レベルまで)下がると同一のものと認識される訳です。

 では、この比喩の岩を人間に当て嵌めた場合に意識の自覚レベルとは一体何を指し示すすのか?これは難しい問題です。宗教者は瞑想により自分を無にした悟りの境地だと言うし、芸術家は自己と対象が一体となった境地だと言うかもしれない。スポーツマンや登山家は一切の意識的な行為が無くなる無我の行動と言うのかな?すなわち計らい(意識的な言動)が消えた状態であると。

 んでぼくは生物学的な共通基盤をこのレベルに据えたいのです。つまりDNAのレベルでは自分も他人も殆ど違いはないし、自分自身だって父母のDNAがキメラ状に混じりあったものですからね。この考え方を更に広げれば、全ての生命は4つの塩基からできたDNAによって作られてるところは同じなんです。一切衆生悉有仏性! 仏性ってDNAかよと。アハハ



 いつか本当に無欲で人の為に泣ける人間になれるかしら。宮沢賢治







 「世界のフルーツ・ハンター」って録画を見てる。ヒト(お猿も?)は緑の中から素早く果物を発見できるように「赤」を認識できるようになったんだと。ホントかよ?しかし犬や猫は色盲だって言うからなぁ。赤が識別できなくて形だけで判別するなら、どえりゃ〜時間が掛かるってのは想像でける。フム