5月9日(木)そもそも人間の論理的な思考にはそれなりの限界があると認識すべき?

 晴れ。14℃〜25℃弱、かろうじて夏日を逸す。以後基準変じて、暖か・涼しいは25℃を境となす。



日本橋高島屋で奇跡の林檎のヨーグルトを売ってると聞いたから寄ってみた。あったあった、8階の催し場。中ほら牧場とのコラボ。試飲したらすっげー旨かったから即購入。しやわせ。6階の美術コーナーに寄ったら、二名(ふたな)ノリコ画伯の展示があってこれも百花繚乱色彩乱舞のすっげー艶やかな絵画。でも値段はン十万円からン百万円でとても手も足もでないから、画録だけもろうてきますただ。ご本人様から手ずからのご贈呈、親切だにい。



幅と深さ、広がりと濃密の相克とは:
人間の認識が時間と空間の関数だとしたらば、その密度の濃淡は当然ありえます。
例えば虫や魚は一瞬の生の喜びをかだら全体で表現していまふ。これは自然や水族館を仔細に観察していれば、誰にでも実感できる事柄です。特にその喜びは、食糧を摂取するときと異性と番うときには如実に現れます。
しかるに植物の生の表現は、少なからず大人しめですねぇ。でも仔細に観察すれば、春夏秋冬実に多彩な生の表現をいたしおり、傍観者をも感動せざるあたわず。地球や宇宙にも当然、存在の喜びというものがあるのですねィ。これを捜すのが知性体たる人類の役割かと。
量子力学における位置と運動量の同時不確定性のように、あるものを突き詰めるとその相補的なるものの存在が不確定になるという原理は普遍的であーる。顕微鏡で極微の世界を覗けるがその範囲は至極狭ーい!望遠鏡で何万光年先の星空を観測できるが、その範囲は遠くを見るほど狭くなーる!
かくして我らは、物事の深淵の洞察と視野の広大さの追求は、その両方を追い求めても永遠に不可能なのであります。これがひいては、知的なる生活者の唯一にして最大なる障害でありましょうや。なぬ?両方ともダメですと?ま、それが大方の正常なる人々の感想でしょうね。でも、無意識なる叡智は自分がおもてる以上に素敵なことが多々ありまする。ドハッ