2月9日(土)初午、古地図を見ながら江戸散歩

 雲の多い晴れ。2℃〜8℃。北風やや強し。黄鶯睍薭(こうおうけんかんす)、ウグイスの初音が聞こえてくる頃。



 江戸の人口は盛期で120万人くらいと見積もられていますが、大火や震災、復興工事などでばらつきがありまふ。武家の都だけあってその内半分は侍およびその家族、使用人ですが、あと半分はいわゆる町人です。町人の1割くらいは門前町などに住んでいた寺社管轄下で、残りは南北町奉行の管轄ですた。それでも当時のロンドン、パリ、ベイジンなどを凌駕して世界一の大都市とされていまふ。それだけ物流、上下水道、治安、周辺農業との循環的取引(野菜を買って、下肥を売るとか)、娯楽などが整っていたのれすね。火事は多かったですが、ヨーロッパと違って疫病がそんなに流行らなかったのは清潔な風俗の所為か?
 武家地、寺社地を含めて町人地も基本的にはお上からの拝領ですが、永代使用権みたいなのはありますた。だから幕府が瓦解したときに武家から明治政府に返還された広大な土地が公園として保存されているのれす。一部は政商に払い下げられたりもしましたが、皇居を始め緑地が多い都市の謂れです。お上のご政道も時代劇にあるような悪役人は少なくて、概ね公正に行われていたようです。防火など都市計画上、ある土地を召し上げると必ず同じ経済効果のある代地を用意しました。これは武家地、寺社地だけでなく町人地にも適用されてますただ。
 橋や寺社のメンテナンスも、その周辺に商業地を許可して上がり金で賄ったようです。勿論重要な拠点には被下金(補助金?)があり、それでも足りないと寄付を許可したり御開帳(展示会?)を差し免したりしました。けっこうフレキシブルでやんしょ?しかし水野忠邦の改革で遊興・娯楽が厳しく制限されて門前町が寂れたときは、さすがにメンテナンスも不十分になって、寺社がお上に願い出て(半ば脅して)、「境内に茶屋をいっぱい建てさせろっ!そうしないと武運長久天下安全の祈念はもうやらねい怒っ!」と申し立てて老中が折れたとか、おもすろい記録も残ってます。
 何はともあれ産業興隆の始まる明治中ごろまでは水清く風光明媚で人柄も良く清潔で安全なとても住みやすい大都会だったのですね。などと思いつつ、今は公害真っただ中の北京を想って可哀そうになりまひたです。東京の河川もだいぶ綺麗になりまひたが、まだまだ江戸期には戻れまへん。百年河清を待つと。どもども。