1月7日(金)セリが盛んに茂るころ、七草かゆを食す

 午前中晴れ。のち曇りがち、ときおり陽がのぞく。5℃〜13℃、44%。








 差別と区別とは:分別というのもあったな

 言葉というのは実態を分節し、概念化(普遍化?)して、それに記号を付したものだから、いくら綺麗ごとに言い換えても、その内に実態が浮き出してきます。例えば金持ちの家の家事をする女性は、昔は賤女、端下はたまた下女と呼ばれ、そのうち武家の家中で働くお女中になり、おさんどんやお手伝いさんと格が下がって、また現代は家政婦のミタになりまひた。なんでも英語な最近ではメイドさんハウスキーパーホームヘルパーなどとゆう人もいる。言葉の変遷は斯くの如し!ぼくは基本的に差別は大嫌いなんだけど、差別と区別をどっちもどっちに持って行こうとする一群は確かに居ます。区別と言うのは、認識の一手段であって、混とんたる世界を特徴により分類して言語化・概念化する手段ですが、差別というのは夜郎自大に自らの優秀さと相手の劣等を区別するゲスの極みなんですね。これは差別用語を禁止するってな安易な規制ではゼッテー無くなりません。むしろ用語規制よりも福沢諭吉でしょうね?いや、万札ぢゃなくって人の下の人を作らずって方の。自分(あるいは自分が属する集団)を上に見たてて他人(あるいは他の集団)を下に見る全ての態度が差別を生むんですぅ。でもこれは綺麗ごとでもあり、自尊心と劣等感の狭間で苦しむ実態は、そげんに簡単なことではありません。絶えざる努力が必要な所以ですぅ。真に強い人しか寛容にはなれません。強い人とは、権力で君臨する者ではなくして、心の底から優しい人なのだと思います。そんな人にわたしはなりたい。