11月22日(木)想像力は創造力の大本であり、生き方の基本なのだす(考)

 うす曇りのち晴れ。7℃〜13℃。気がつけば渡り鳥がけっこう飛来している。

 「経験の壁」を想像力でどれくらい補えるのか。人は皆自分に正直に生きようとして自分の考えや感覚を大切にします。でもそれらは生まれつきの素質や経験に依拠しているので、どーしてもその枠内から放れられない宿命にあります。例えば色盲の人は色というのを経験したことがありません。我々がモノクロの映画を見ているような世界に住んでいるわけです。海岸に赤い貝殻が落ちていたら一瞬で分かるのに、その人はなかなか分かりません。経験で言うと、例えば結婚して子供が出来て赤ちゃんを育てるとします。赤ちゃんは自由気ままで泣いて自分の欲求や不具合を知らせます。周りのことなどお構いなしです。でも普通の親馬鹿は自分の赤ちゃんが可愛いから、どんな理不尽な状況でも赤ちゃんを見放さず夜も寝ないで育てます。この過程で自己中の我が儘な若者は、我慢を覚えて親になっていくのです。丸くなります。正論や正義ばかりを主張しなくなります。何しろ何年もこの理不尽と付き合わされるのですから子供を持っている人と居ない人ではそもそもの赤ちゃんに対する経験値がまったくちげーのですね。ただ煩いだけの厄介者から眼の中に入れても痛くないほどの存在に変身するわけです。ですから双方が自分の気持ちに正直でも、その捉え方はみんな異なるのです。人はみな自分とはまったく違うと思った方が良いでしょう。で、この壁をどーすれば乗り越えれるのか?原理的には絶対に乗り越えれません。ただ想像力を駆使して、背伸びしながら壁の向こうを覗こうと思えば、微かに向こうの人影が見えるかもしれません。経験していないことを想像する力、これはやはし読書や話し合い、あるいは映画、音楽、絵画、彫刻などの芸術を通して、疑似経験の幅を拡げるしかないのです。それでもホントのところは分かりきれないという「無知の知」の認識も謙虚で居る為には必要でしょう。だって「漏れは誰のことだってちゃんと分かっているんだ!」という傲慢は何も生まないし、単なる上から目線の誤解を蔓延させるだけですから。と、ここまで述べてきたら赤ちゃんのことが分からない人も、耳が敏感で気が狂うほど泣き声が気になる人も、もっともっと自分には気が付かない理由で苦しんでいる人も、みんないて、それが社会なんだと思えてきます。分からない世界を手探りで生きている人間はとても人のことについて断言などできないと思います。ちげーかな?「正義の反対語はなんだ?」、「それは別の正義だ。」というのを何処かでミタような気もするこの夕べ。想像力の権化!だからぼくは作家という人をこころから尊敬するのです。