10月20日(土)伝統か人権か

 秋晴れ。14℃〜21℃。ジェット機が遠方を飛んでいるのが良く見えます。夜半、澄んだ空に三日月が浮かぶ。


 三軒茶屋方面に進出。この辺は昔よく飲んだところで懐かしかった。今日は若者たちと勉強会&飲みニュケーション♪



 「革命」の是非に関してはカントの両義的な考察がありまふ。すなわち伝統と慣習に基づいた実定法か自然権に基づいた憲法か、どっちを優先させるのかの論争がありまひた。保守派は自然権(人権)なんつう抽象概念では社会を統率できん、慣習的権利(実定法)に基づくべきだと主張し、革命派は生まれながらの権利は慣習的市民権を包括すると主張する。ここでカントは行為者としての革命はしっちゃかめっちゃかに陥る危険性があるが、観察者から見た革命は道徳的な共感を持ちうるとして支持した。岡目八目かよ?そして幸福最大化などは原理にならん!なぜなら幸福なる主観的なものを為政者に委ねれば独裁にならざるを得ず、国民はそれぞれ勝手な自己幸福感を主張し国の幸福感に反逆すると。そして「言論の自由」を最大の基準とし、これによって為政者の態度を改めさせるのがベストだと主張する。ま、一種の体制内改革主義ですな。これはフランス革命から離れた場所にいたことと、革命後の悲惨を伝え聞いていたからだと思われまふ。ま、全ての思想家もその歴史的、地理的、文化的な環境からは逃れ出ことあたわずの例ですかねィ。立場を放棄するといふことは自分を無くすことに等しいと。つう意味では実名主義者にも幾許かの理はあるのかな?




 あ、もう一つの論点。「書くこと」と「語ること」の意味。言論の自由にかんして。
 カントはナショナリズム台頭以前にインターナショナリズムを主張していたが、書くことと喋ることを公私の区別に使ってました。書くことは理性の公的利用であるが、語ることは理性の私的な利用であると変なことを口走った。そのココロは、文書の形で公表すればそれは何度でも繰り返しじっくりと検討することができるが、語られた言葉は次々と塗り替えられ瞬時に消えて行くからであると。検証性の問題なのかぁ?そして言論の自由とは書く事を守ることで、喋ることは場合によっては制限しても構わないと。そして語る言葉はナショナリズムなどの感情を煽りやすいと。ネットで言へば、ブログとツイートの違いかな?そー言えば直接の討論よりも、手紙での論争の方が多少理性的のような気もしまふ。リンガフランカたるラテン語は当時完全なる書き言葉、話すひとは誰もおりません。哲学がラテン語から英独仏語に分かれたときを境にナショナリズムの火がヨーロッパを駆け巡ったことを想起すれば多少納得でけるのかもね。ナポレオンとかヒットラーの演説とか。そー言へば中華圏は文書の文化だったですが、最近は語る言葉に変わってしもたのかなぁ?ナショナリズムの高まりを見てそー思いますただ。ども。
 






 昨日のエントリを読み返してておもたこと。
 付近の50回建マンソンは1年くらいでスルスルと建ってしまうのに、5階建ての学校の建て替えには5年も掛かりまふ。また、橋の架け替えも4年がかり。なんで民間と較べて公共はこんなに非効率なんだぁ!とかおもてまひたが、これは雇用や設備を平準化しているんですねィ。これこそ公共の役割っ!ピラミッドや万理の長城をミロ!穴掘って埋めるよりかなんぼか益しやろ?