8月18日(土)哲学的なあまりにも下らない独白

 曇り一時雷雨、午後から晴れ間。雨で気温が下がり、30℃を下回ったかも。


 意味は可能的経験(事実や実体験以外に夢や空想などを含む)に裏付けられねばならない。紙幣は使える可能性がなければ紙くずにすぎない。他人の心を知ることはできるのか。他人の心を実感し自分のと同じように感じれればそれはもう自分の心だ。他人の心は知ることはできないが信じることはできるという人もいる。それでは他人の心は神さまのようなものなのか?実体は分からんが定義できるものと、意味が決まらないものを混同した議論である。
 他人の心がありそうに思えるのは言語によるコミュニケーションがあるからである。それでは言語は世界の全てを掬いとれるのか?どんなことでも言語は表現できるのか?否!主観の中、微妙な感じ、クオリア、言葉にならない感覚世界が世界の大半を占めているのだ。しかもその世界は二つの節穴の中から現にこの世界を眺めている、今ここにいる「我」しか実際は感知できない。独我論唯名論の対峙。でも言語以前の赤ちゃんはお母さんの視線を追い、自分もそれを眺めて、お母さんの顔を見ながらきゃっきゃと笑う。言葉がなくても共感は発生するのだ。言葉の有意味性を担保するものは何か?語の意味の同一性を担保するためには対象(同一の物差し)との比較が必要になり、そこで内心だけで分かるクオリア的な私的言語は公的言語に変化する。しかし他人の心は分からないと。ここに言語の独善性と原理的な誤解が発生するのである。つまりわすらは世界や他人を分かったつもりになって暮らしているだけなのさ。ジャン



 しかし、物理主義で言へば心は脳の作用であり、ニューロンのネットワークやシナプスの発火、脳内化学物質による働きで引き起こされた現象であるから、遺伝子がほとんど同じである人類間では主観も似たり寄ったりであろう!という強い推定が成り立つ。たまに受容体タンパクの欠損で色弱色盲が生じるが、「赤」という色は皆同じように感じているんだろうな?と推測できる。しかしこれは自分の心が他人の中に入れなければ永遠に確認できない事象として残される。でも皆が自分と同じように見て聞いて感じているんだと想定して、大きな齟齬がなけりゃあ、それでイイのだっ!これが普通の生活人だっ!納得しないのは理屈っぽい哲学人だけなんらぁ!ドーダ