7月26日(木)言葉は無くっても、世界はあるのだあ!

 うす晴れ。気温は猛暑日に近づく。遠方はゆらゆらと蒙気の中。

 神楽坂の寿司アカデミーを予約。最近流行っているらしい。ネタは良いんだけど修行中の若者を使って安くしているらすい。千円床屋も流行っているしね。職人文化の崩壊か。



 捜し物はなんですか♪
 夢の中で探し物をして、見つからないで焦っていることが増えてきた希ガス。携帯とか本とか財布とか。前から良くあるのは居酒屋や旅館で帰りに自分の靴が無くなってるの。似たようなのはあるんですが、微妙にサイズが違っていて途方にくれているんだ。中学校の頃の下駄箱で、自分の靴が無くなっている夢も見たな。全部、自分が経験したことなんだろうか?もう、すっかり忘れちまっているけど。そーいえば最近居酒屋で、風呂屋の下駄箱のように木札の鍵を使ったのが多くなったな。それだけ靴の間違いが多いのだらうか。本やネット上の情報も含めて、歳をくうと探し物をしている時間が増えてくるような気がします。求めても得られなかった生甲斐の代償として?




 原理的な困難性として、自分が既に持っているものを無いと観想することが出来るのかっつうのがありまふ。「アハ体験」みたいに一度それに気がつけば、それがデフォになってしまい、どんなに頑張っても違う見方ができなくなってしまうとか。言葉がない時に人間はどーやって思考したのか?っつうのが最近の関心。未だ納得できる解釈はあーりまへんが、たぶん身体感覚的なものなんだろうな。あそこはなんか嫌〜な感じがするから近付くのはよそうとか、あそこは何か気分が良い場所だなとかで過去の経験を今後の行動に生かすと。パワースポット的な霊感に結びつく宗教性の始まり。言語でくどくど考えれないから、いわゆる瞬間把握力や直観に頼ると。それがものすごく複雑に色んな感覚に分かれていたんだと思う。もう、今は失われているから自分でも分かんないけど、時折り霊能者なんかに現れいずると。もっと高尚に言へば音楽の情感とか絵画で語るとかになるんでしょうねィ。言葉に依らない思考ってのは既に失われていますが、うっすらと感じ取ることはでけるような気がします。ども。





 おおーっとお!サッカーのスペイン戦が始まるどおぉぉぉ〜〜〜〜〜!