7月23日(月)京極夏彦講演録(その2)

 薄晴れ。28℃まで気温上昇。何気に夏戻る。
う〜む。ゴーヤが採れすぎて食べきれん。保存食を調べてみよう。薄く切って、揚げて、ゴーヤチップとか、苦煎餅とか。


 
 「世界の半分は読書からなる」(京極 夏彦)7月12日からの亀つづき。

3.言葉は文化
日本語には色に関する語彙が多いですぅ。50以上ある。虹は7色だと思っているが、虹が5色しかない民族も多いですぅ。認識の深度。細かく区切って細やかにものが見えるようになる。名前が無いところには、その色もあーりまへん。言葉が無ければ実際にある色も見えなくなります。語彙は多ければ多いほど、その世界を良く認識していると言へます。(唯名論?)・・・玉虫注:そう言へばエスキモー(イヌイット?)には白黒灰色を区別する語彙がゴマンとあるとか聞いたな。降ったばかしの雪の色とか氷の色が何種類も。それらを区別し使い分けねば生活もできんし、時には命に係わると。
日本語は「笑い」にも語彙が多いですぅ。微笑み、馬鹿笑い、追従、恥かし笑い、冷笑、鼻で笑う・・・。社会的に複雑な関係を処理するために多くなりますた。たった2つしかない国もあるですよ。とてもビミョーですね。他に言葉がなければ笑いはホントに2つしか無いことになる。知っていれば表現できるし、相手にも伝わります(しかし、相手もその語彙を知らないとダメ)。・・・玉虫注:日本語の人称語彙の多さは、他言語に類を見ないほど多いれすぅ。これも人間関係の複雑さを示しておりまっふ。人間関係を間違えると、生きてはいけない?
最近の人は語彙が少なくなったと言われます。(玉虫注:マジっすか。ヤバイっすね。それイケテます。の3語+ビミョー!で世を渡る超かる〜〜〜い人々!)語彙を広げるには本を読むしかごぜーません。(玉虫注:これは外国語習得でもおんなじれす。ちょと聞けてちょと話せるようになったら、なにしろ乱読して語彙を広げるに限ります。それも面白いのを読まねば続きまへん。ハックルベリーなんかイイでせう。でも古い米語の語彙ばっかし増えちゃうかもね。ぷ)
4.文章の書き方、読み方
わだす(京極氏)の主観を述べれば、文章が悪いのは頭の中が整理されていないからです。それと語彙が貧弱なとき。ビジネス文書は明瞭簡潔が第一ですが、小説はグレーに限ります。わざとボカスのです。なぜなら小説は全部誤読から成り立っているからです。読者はそれぞれ興味を持つツボが違います。1人〜2人のツボならば狙って掴めますが、三千人のツボなんてだ〜れも掴めません。それゆえグレーに表現して、読者が勝手に自分のツボに近づけれるようにするのです。これが書き手のツボ。
例えば、対象読者層100万人中、10万人が読んでくれ、その内1万人が気に入ってくれたとしよう。その1万人が全部誤読でも、それは全部正解なのれすよ。読者が好きなように、楽しめるように書くのが作家。何故なら、読者は持ってる語彙が全部違いますから、読む人によって、読み方が全部違うのです。(玉虫注:なるほろ、さんざん語彙の話しをたらたらしていた理由は、これを言いたかったからだ。この論理展開には納得!)また。例えば「ばか」といふ同じ語彙でも、ホントは話し言葉ならニュアンスがたくさんあるのですね。怒り、甘え、合槌、揶揄、・・・。でも書くときは一つですから誤読は必然です。でも日本語の書き言葉は世界有数の表現力があると思います。漢字、ひらがな、カタカナ、顔文字、ギャル文字、英語、色んな記号、漢数字、アラビア数字、ルビ、脚注、などなどで柔軟にして多様な表現が可能です。我々はもっともっと日本語に感謝しなければなりません。
以上のことから、小説は読まれて初めて完成するということが分かります。作者なんて落ちていたら、踏んづけても良い存在なのです。たとえこう読んでもらいたい!という願望があっても、昔の作品は言い訳もできませんからね。また小説だけではなく、文芸評論だって一つの作品ですから、こう読まねばならないという思い込みをもってはだめです。これも自分の読みたいように読めばイイのです。俺えらいねで結構!
5.更に読み込む極意
どんなに詰まらない本でも、それを面白いと思った人が最低2人はいるのです。作者と担当編集者。たまたまその2人の感性が俺に無いだけなのだと思いなおせば、それが面白くなるまで読むというのが読書の一つの方法です。ピーマンでも生魚でも何でも食べれた方が人生楽しいししやわせです。わたしも最初は詰まらないと思っていた水野晴郎の「シベリア超特急」のツボがつい最近分かるようになってきました。たとえ電話帳でも時刻表でも、どんな本でも面白さを見つける気になれば面白くなります。語彙を増やすには、その語彙が盛られた本を読むしかねーんですから、好き嫌いなしに何でも読むしかごぜーやせん!中高で毛嫌いしていた古文も、音読みしてみたら意外に読みやすく、その美しさが分かりました。(玉虫注:これは漢文の素読にも当てはまりますね。声出して読むと心に沁みてきます。)
五線譜で表せない雅楽の「みゃ〜〜〜〜〜」なんて微妙な音の、場の形成力が如何に大きいのかも最近分かりました。
本は高いし、分厚いし、場所とるし苦手だと仰る方もいるかと思います。でも、昔は部数が少なかったのでとても貴重品だったのです。文庫がいいかハードカバーがいいかも好き好き。需要は所々によって様々です。インクの色合い、表紙、ひも、花ぎれ、紙の質、紙の色、手触り、めくり具合、フォント、などなど、これらすべてを含めて読者の中だけでカスタマイズされたものが立ち上がってきます。自分だけのもう一つの世界を読書によって手に入れることができるのです。これがもう一つの「世界の半分は読書から成る」の意味です。
最後は主催者に阿った、本の宣伝めいてきましたが、全体としては好感の持てる好演でした。本稿はこれにてお終い。ではでは。






追記:そだそだひとつ、長々と人の講演を挙げた言い訳をしとこ。
分かる人には分かるし、分からない人には分からないので、一応言っとくと講演も誤聴によって完成するのれす。ですからこの文もわだすの作品とゆってもいいのれす。演者によって触発された、わだすの主観が大半かもしれまへんでぇ。ど、どもども。