5月28日(月)玉虫的認識論(短考)

 晴れ。夕方一時雷雨。



 ヒトの認識構造が世界の捉え方そのものを制約しているという考え方があります。科学的な考え方の基本は反証可能性ですが、これは実験事実に適合しているうちはその理論が生き残りますが、新しい事実が見つかり理論的整合がとれなくなると、新しい理論が生まれます。適応的な機能は残り、適応しない機能は滅びると言う進化論はまさに、これと同じ構図であり、同じような思考のパターンが適用されています。社会矛盾は止揚され次々に高次な適応がなされると言うマルクスの社会理論も社会の進化発展の構図が同じです。みな「進歩」という概念がコアになっています。このように思考パターンが共通している理論は、学問の色々な分野で見られます。
 このように考えると、仮に全く違った筋道を辿った高等生物がいたとしたら、その生物が認識する世界はまったく違った姿に見えるかもしれません。例えば、我々は現象を階層化して認識します。コンピューターのプログラムでは、ベタのビットパターンでは何も分かりません。その上にアセンブラ言語をかぶせ、OSを通して、高級言語を置き、それを使ってアプリケーションやコマンドを実行します。生体現象の理解には、DNAやプロテインなど分子レベルの機序から細胞内の働き、特定の細胞が集まった組織、組織が集まって一つの機能を担う臓器という階層化が行われます。ベタに展開した情報の海では、典型的なヒトは物事の理解が困難になります。(しかし、サヴァンの人などは階層化せずに、ベタに理解可能なケースも見られます。)
 DNAからたんぱく質が作られるセントラル・ドグマと呼ばれる根本原理は、コンピューターの構造と実に良く似ていることが知られています。2ビットの情報が3組、つまり6ビットでコードされた遺伝子を、コード表(コドン)を使って解読し、テープの順に沿って繋ぎ合わせてプロテインが作られる。なんでこんなにディジタルメカニズムなんだよー!という疑問も湧きますが、これも単にヒトの認識能力の限界だと思えば納得できます。
 まとめると、世界がそのように在るのではなくして、我々が世界をそのように理解するのだと言えるのではないでしょうか。このようにして我々は類間の意志の疎通を図っているのです。か?「認識の牢獄(枠組み)からは誰も抜け出すことあたわず」という多少悲観的な結論です。「自己主観の牢獄」と言い換えても良いかも。かもかもかもね。ズッシ~~~ン