9月2日(日)適応的とは何ぞや?

 概ね曇り、一時驟雨、ときどき晴れ間、つう不安定な天候。26℃前後で真のとれた夏日。気温は低いが湿度が高い。自転車に乗っている時は気分がイイが、歩くとムッシ蒸し。晴れの日が続いたために、関東、東北の水瓶が干上がっているとか。


 サムスンとアッポーの特許係争は10か国以上でやってるとか。日本も昔はアメリカの陪審裁判で痛い目に合ってたような?最近は勢いが衰えたからあんまし目くじらを立てられないが、アメリカのサブマリン特許でかなーり叩かれたなぁ。技術的な問題を素人の陪審員が判断するなんて、ワイルドだろ〜!独逸なんかでは、判事さんも技術には疎いから何人かの専門家に裁判所が諮問して「エキスパート・オピニオン」つうのを取り、これが判決に影響するシステム。どっちがエエのかな〜?






 進化論を引き合いに出して、現状を肯定するような似非適応理論を時折り見かけます。現状がこうなっているから、現状が適応的であるっつう循環論法。例えば「若者が挑戦しないのは、育成環境の中に、挑戦しないことの方が適応的であるという因子があるに違いない。」とかいう断定。進化に於いてはどの時期でもそれは適応過程であって、それが最終形体ではあーりまへん。事実をもって適応的であると為す言辞は、自然主義的誤謬の一種であろうか。万引きの種は尽きないから、それが適応的であるなどとは誰も考えないであろう。社会的な不適応者が万引きをするのであって、万引きが多いからそれが適応的であるのではないのであーる!カナ?








  カントの屁理屈論:その3、こころ(霊魂)を対象化できるのか?
 自己とは認識主観(我)であり、主観的な思惟作用である。しかし、あらゆる認識はそれを対象化しないとできない、対象認識である。しかるに己の心(認識主観)を認識しようとすれば、それは瞬時に対象化され認識客観に変質する。すなわち本来の自己ではない。主観としての自己を客観としての自己に取り違える誤謬推理が生じる。自分の主観(こうして今ここに生きて、感じて、苦しみ、楽しむクオリア)は永遠に客観たりえないという理論的限界がある。而して、心と身体は同じか、別か?別なら心は滅びるか、滅びないか?心は合成体か、単一体か?といふ形而上的な難問も理性では永遠に解けないということになーる。(不可知論)ドッボーン