5月10日(木)ポジショントーク考

 薄曇り。大気不安定になり午後一時雷雨。気温急激に下がる。夕刻晴れる。


 

 ぼくみたいに、「この世に正解つうのはないんだっ!(むろん極部、極時的な適応解はありうるが)」とヒネたスタンスを取ると、人の言っていることは(極端にいふと)すべてポジショントークということになります。意識的にしろ無意識的にしろある方向性があって、それを後から合理的に説明しようとする。最初は真っさらで、論理を組み立てて行くうちに正解に達するなんてことは純粋な論理の構造物である数学でもありまっせん。
 ここで言うポジションつうのもかなり広い意味でとらえられまふ。国の歴史や文化、自然環境や個人の生育環境、生育履歴などなど、すべての影響を含みます。そうでなくっちゃこれだけ国ごとの、個人ごとの多様な正義は出てこないよね。ただピアプレッシャーや教育・啓蒙・宣伝によって国ごとに大括りできる方向性はあります(北朝鮮、イラン、アラブ諸国イスラエル、欧米、中国、インド、ロシアなど正義はみんな我にあり!)。 
 だから議論なんてムダだとまでは言わないが、議論の土台となるポジションの違いを浮き上がらせることがまず大切だっ!、とわたしはこう主張したいわけです。そのためには相手の話しを良く聞いて相手を理解する努力が基本となります。(玉虫的相対主義より)






 宗教と科学:
 宗教がない世界では科学がそれに取って代わります。なんでもかんでも科学的でなくっちゃ嫌だい!でも科学はデカルト的疑いから始まったのですよ。方法的懐疑。反証可能性のディレンマ。ホントはころころ真実が入れ替わる相対的なものが科学ですから、宗教の代わりとなる基盤としては心もとないものなんす。「それは科学的ではないっ!」と言ふ人の顔を良く見れば、司教に似ていると。プ