4月18日(水)可能性を生きるわたしたち

 もくもく雲の多い晴れ。

 昼食は日本橋のそばよしで一杯のかけ蕎麦。ふんだんに鰹節を使った汁が旨し。先日、ブラタモリに出ていたところ。¥270也




 実際に目の前にいない人は、生きてても死んでても、実はおんなじなんです。1年に1回も合わない友人も毎週会ってる友人も、今ここの目前にいないという状況は同じ。もうあっちへ逝っちまった友人も今ここにいないというのはおんなじ。では何が違うのか?今生きている友人にだって、今後一生合わないかもしれんではないですか。死んだ人の書いたものを、あたかも今そこにいるかのように生々しく感じることもあります。そういう意味では、みんな可能性としての存在であり、脳内現実として現前していればみんな生きているのです。今日メトロで同じ車両に乗っていた人々とだって、多分もう一生会うことはないでしょう。でも多分後10年以上は死んではいない。でも、120年経ったらこの世界の70億全員がvanishしているかと想像すると、仮想のうつつ世で何を悩むのかっ!と心がかろくなるような気がします。一方、むかしの人のこころを綴った古典なども、時空を超えて今を生きているということにもなりますか?うんうん、それは文学だけじゃなくって、全ての芸術に言へそうですねぇ。ラスコーの壁画だって今にも動き出しそうですから。時を超える想い♪








 そうそう昨日展覧会を見ていて感じたんですが、絵画も写真と同じように切り取りの芸術ですねぇ。切り取りとは構図であり構成であり関心の志向性であーる。絵画のほとんどはそこで決まってしまうとか(ちょっと言い過ぎか?)。色彩やタッチやデフォルメや遠近法などは単なる技術の問題?いやいやそんなに芸術は軽いものではないって?ハイハイ 現に目の前に在るブツ(nature)を切り取り、色彩、質感、形態を合わせて我らの錯覚に塗れた感覚を通して造形(art)することが、そんなに軽いわけはないよね。ものには輪郭線なんてないし色は刻々と変化しますからねィ。いっそnatureから離れてartに徹した方が伸び伸びとできるかもしれないが、インテリア絵画になって深みを失うかもしれんしなあ。そこはもうお好み次第の領分?








 季節の変わり目はかだらが重い。楠などの常緑樹も新芽が出る時期が落葉の季節。お掃除のおじさんは苦労します。